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貝原塚城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8251.JPG←空堀と隅櫓台
 貝原塚城は、歴史不詳の城である。城主について、『日本城郭大系』では小田氏直とし、近世に書かれた『土岐・岡見氏一族・旗下・家臣等覚書』(『諸岡文書』)では江戸崎土岐氏の一族で龍ヶ崎城主であった土岐左兵衛尉胤倫の家臣師岡長門であったとしており、どちらが正しいかは不明である。

 貝原塚城は、小河川の流れる谷戸に突き出した比高10数m程の2つの台地先端に築かれている。2つの台地は、間を谷戸で隔てられ、西が城山、東が寄居の地名が残っていることから、
金剛院の北西背後にある二つの丘陵に築かれている。西側が本城で、東は外郭であったと考えられる。遺構もその通りとなっており、大地を東西に貫通する小道から北の山林の中に入っていくと、城山の方には規模の大きな空堀が穿たれ、幾重にも屈曲して走っているのが確認できる。空堀に沿って土塁が築かれ、要所に大きな隅櫓台が築かれている。空堀だけでなく、土塁も櫓台も規模が大きい。しかし空堀は幾重にも横矢掛かりの屈曲の先は、途中で堀が消えてしまっており、どのような縄張りであったのか、今ひとつピンとこない。『図説 茨城の城郭』では、構築途中で放棄したとの説も提示しているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、どうも後世の耕地化による湮滅の可能性も捨てきれない様である。城山の空堀で囲まれた北東の曲輪が主郭と思われるが、主郭の北東部にも大きくクランクした空堀状の虎口が築かれている。一方、東の寄居の方は一面の畑に変貌しており、西へ降る小道に沿った竪堀や、腰曲輪状の平場が見られるほかは、遺構はよくわからない。それにしても貝原塚城は、久々の倒竹地獄で遺構の踏査はかなり困難である。これほどの遺構を埋もれたままにしておくのは、勿体無い限りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(藪がひどいので減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.942158/140.203035/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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