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鷹巣城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_2989.JPG←空堀に挟まれたニノ郭の土橋
 鷹巣城は、織田勢力が加賀を制圧した頃に歴史に現れる城である。1576年の城主は平野神右衛門と伝えられるが、翌77年平野氏は越後に赴き、上杉謙信に属したと言う。これは謙信が手取川合戦で柴田勝家率いる織田軍に圧勝した年で、謙信の能登攻略、加賀一向一揆との和睦等と連動した動きであったろう。1580年、御館の乱で越後上杉氏が弱体化した隙を突いて、織田軍はようやく加賀を制圧し、信長の部将佐久間盛政が尾山御坊を攻略して金沢城として築き直して城主となると、家臣の柘植喜左衛門・郭賀八矢・松本我摩久順次が鷹巣城の守将となった。また一説には、柴田勝家が家臣の拝郷家嘉を入れて守らせたとも言われる。1582年に信長が本能寺で横死すると、明智光秀を討った最大の殊勲者羽柴秀吉が織田政権の実権を掌握した。その後の織田家家臣団では親秀吉派と反秀吉派が争い、1584年(『日本城郭大系』が載せる『石川県史』では1585年のこととするが、末森合戦のあった1584年の間違いであろう)、反秀吉派であった越中の佐々成政は、親秀吉派の前田利家の領国加賀・能登へ大挙侵攻し、鷹巣城も攻撃されたが、前田利家が出張って撃退したと言う。

 鷹巣城は、辰巳ダム東方にあり、谷戸に挟まれた標高245mの丘陵上に築かれている。城内南西辺には山道が貫通しており、一部遺構が破壊されているが、ほとんどの遺構は無傷で、しかも南東麓からこの山道を使って車で城付近まで来ることができるので、訪城はたやすい。主郭を中心に、扇状に曲輪を南東側に展開した梯郭式の縄張りとなっている。西から順に笹曲輪・主郭・ニノ郭と並び、二ノ郭の北に三ノ郭が置かれ、ニノ郭と三ノ郭の外側に四ノ郭が築かれている。それぞれの曲輪は堀切・空堀で分断防御され、主郭・ニノ郭・三ノ郭には土橋が架けられている。ニノ郭・三ノ郭の土橋は、ぞれぞれ直交する空堀に挟まれた形で構築されており、横にそびえる曲輪の塁線上から攻撃できる様になっている。各曲輪の堀の中では、二ノ郭外周の空堀が最も規模が大きく、内側の土塁と相まって大きな防御性を発揮していたと思われる。また二ノ郭空堀の南端には横矢のクランクが設けられている。四ノ郭の外周にも土塁と横堀が延々と構築され、大きな横矢のクランクや張出し櫓台も構築されているが、外周の空堀は規模が小さめである。また笹曲輪・主郭・三ノ郭の北斜面にも横堀の防御線が築かれ、笹曲輪先端まで掘り切っている。この他、城の主要部から山道を挟んで西の斜面にも腰曲輪群や横堀が築かれ、下方の西に張り出した曲輪の基部には堀切が穿たれている。遺構としては以上で、ニノ郭・三ノ郭・四ノ郭は直線形の堀を基本に要所で横矢を掛ける構造で、織田氏勢力の築城法の一つの典型と見做されている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.496907/136.720541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

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