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萩生城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2904.JPG←主郭外周の空堀
 萩生城は、大戸城(手子丸城)の支城である。大戸浦野氏の家臣小林石見が在城していたと伝えられる。1582年、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、元武田領国の支配権を狙って北条氏直の侵攻が始まった。神流川合戦で織田氏部将の滝川一益を駆逐した北条氏は上野全域の支配を目指し、吾妻を領有して北条氏に抗していた真田昌幸の岩櫃城を攻撃するため、その前哨戦が三ノ倉で始まった。真田方であった大戸城主大戸真楽斎・権田城主大戸但馬守兄弟は三ノ倉で北条勢を迎撃したが、多勢に無勢で大戸城まで退き、そこで激戦の末討死した。この戦いの中で、萩生城も北条勢に攻略され、小林石見は没落したと言う。

 萩生城は、境野集落に北側に隣接する比高30m程の舌状に伸びた低丘陵の中程に築かれている。城のすぐ東側には旧草津街道が切り通し状に貫通しており、街道を押さえる要害として機能していたことが伺われる。方形に近い形状の主郭を中心に、周囲に空堀を廻らし、前後にニノ郭・三ノ郭を設け、更に北西から北側を巡って南東まで空堀を廻らした縄張りとなっている。従って、主郭の北東側では二重横堀となっており、2つの横堀間には土塁が延々と伸びている。主郭は畑となっており、前述の旧草津街道から畑まで小道が伸びているので、訪城はたやすいが、主郭には無断では進入できない。主郭の北東側ははっきりとした二重横堀となっているが、南西側は改変されているのか、内側の空堀も一部を除いて腰曲輪状になっており、やや遺構が不明瞭になっている。主郭北西の三ノ郭(『境目の山城と館 上野編』の縄張図では郭4としている)の前面には土塁が築かれ、その前には尾根を断ち切る様に二重横堀の外堀が掘り切っている。その先の北西尾根はほとんど自然地形であるが、途中に2本の堀切が穿たれている。一方、南東の尾根は改変を受けているらしく、二ノ郭の南側などはわずかな段差しか残っていない。萩生城は、二重横堀で防御を固めているものの横矢掛かりは見られず、素朴な形態の城である。少々薮が多いのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.487868/138.776293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世平山城
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