雨宮氏屋敷(山梨県笛吹市) [古城めぐり(山梨)]
←本堂裏の土塁らしき土盛り
(2020年8月訪城)
雨宮氏屋敷は、武田氏の家臣雨宮氏の居館である。『甲斐国志』によれば、雨宮摂津守家国が居住したと伝えられる。また雨宮氏としては家国の他に、雨宮次郎右衛門が武田氏の蔵奉行衆の一人として見え、また武田義信(信玄の嫡男)付きの家臣として雨宮十兵衛家次が知られる。
雨宮氏屋敷は、明確な場所は不明であるが、一説には慈眼寺境内とも言われている。慈眼寺の前面(東側)には田垂川が深い水路となって流れ、本堂の裏には土塁らしい土盛りが見られる。武士の屋敷地としてそれなりの構えがあったように思われるが、慈眼寺自体の歴史が武田氏時代まで遡る。即ち、武運長久の祈願所として武田家の保護を受け、その後、1582年の織田信長による武田征伐の際に兵火で焼失したと伝えられている。その歴史からすると、慈眼寺の位置に雨宮氏屋敷があり、屋敷跡に慈眼寺が建立されたのか、それとも元々慈眼寺はこの場所にあって、別の所に雨宮氏屋敷があったのか、いずれかなのであろう。今後の考究に期待したい。
尚、慈眼寺の本堂・庫裡・鐘楼門は国の重文に指定されており、雨宮氏屋敷としてより、重文建築物を見に来る方が良いかもしれない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.643103/138.692189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2020年8月訪城)
雨宮氏屋敷は、武田氏の家臣雨宮氏の居館である。『甲斐国志』によれば、雨宮摂津守家国が居住したと伝えられる。また雨宮氏としては家国の他に、雨宮次郎右衛門が武田氏の蔵奉行衆の一人として見え、また武田義信(信玄の嫡男)付きの家臣として雨宮十兵衛家次が知られる。
雨宮氏屋敷は、明確な場所は不明であるが、一説には慈眼寺境内とも言われている。慈眼寺の前面(東側)には田垂川が深い水路となって流れ、本堂の裏には土塁らしい土盛りが見られる。武士の屋敷地としてそれなりの構えがあったように思われるが、慈眼寺自体の歴史が武田氏時代まで遡る。即ち、武運長久の祈願所として武田家の保護を受け、その後、1582年の織田信長による武田征伐の際に兵火で焼失したと伝えられている。その歴史からすると、慈眼寺の位置に雨宮氏屋敷があり、屋敷跡に慈眼寺が建立されたのか、それとも元々慈眼寺はこの場所にあって、別の所に雨宮氏屋敷があったのか、いずれかなのであろう。今後の考究に期待したい。
尚、慈眼寺の本堂・庫裡・鐘楼門は国の重文に指定されており、雨宮氏屋敷としてより、重文建築物を見に来る方が良いかもしれない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.643103/138.692189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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