宗守城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]
←南辺の土塁
宗守城は、宗守砦とも言い、永正年間(1504~21年)に越後守護上杉九郎房能の家臣小林壱岐守がこの城に拠ったと伝えられる。1507年に房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に攻撃されて滅亡すると、小林壱岐守は越後に戻り宗守城は廃城になった。
尚、現地解説板に「上杉顕定が砺波地方を略し」とあるが、これは明らかな間違い。上杉房能の次兄顕定は、関東管領山内上杉房顕が五十子陣で病没すると、山内上杉家の家督を継いで関東管領となった。当時の関東は享徳の大乱の真っ最中で、更に顕定の代では長尾景春の乱もあり、関東争乱の渦中にあった関東管領の顕定が、越後を越えて遠く越中まで侵攻するなどありえない話である。また房能の名を房義と記載しているのも誤りである。
宗守城は、現在神明社の境内となっている。神明社の周囲に土塁が明瞭に残っているが、小型の土塁囲郭で、かなり小さな主郭であった様だ(東の土塁は後世に盛られたものとの話もある)。土塁は神社背後の南辺のものが一段高くなっているが、この形が往時のままかどうかはわからない。いずれにしても現状を見る限り、小規模な城砦である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553534/136.906192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
宗守城は、宗守砦とも言い、永正年間(1504~21年)に越後守護上杉九郎房能の家臣小林壱岐守がこの城に拠ったと伝えられる。1507年に房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に攻撃されて滅亡すると、小林壱岐守は越後に戻り宗守城は廃城になった。
尚、現地解説板に「上杉顕定が砺波地方を略し」とあるが、これは明らかな間違い。上杉房能の次兄顕定は、関東管領山内上杉房顕が五十子陣で病没すると、山内上杉家の家督を継いで関東管領となった。当時の関東は享徳の大乱の真っ最中で、更に顕定の代では長尾景春の乱もあり、関東争乱の渦中にあった関東管領の顕定が、越後を越えて遠く越中まで侵攻するなどありえない話である。また房能の名を房義と記載しているのも誤りである。
宗守城は、現在神明社の境内となっている。神明社の周囲に土塁が明瞭に残っているが、小型の土塁囲郭で、かなり小さな主郭であった様だ(東の土塁は後世に盛られたものとの話もある)。土塁は神社背後の南辺のものが一段高くなっているが、この形が往時のままかどうかはわからない。いずれにしても現状を見る限り、小規模な城砦である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553534/136.906192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
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