福光城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]
←城跡の栖霞園
福光城は、福満城とも記載され、この地の豪族石黒氏の居城である。石黒氏は、古代の豪族利波氏の流れを汲み、平安末期には加賀の林氏との姻戚関係を背景として、利仁流藤原氏を名乗り、福光周辺にあった石黒庄を名字の地とした。治承・寿永の乱(所謂源平合戦)の際、1183年の倶利伽羅(砺波山)合戦で他の越中武士と共に木曽義仲軍に加わり、平家の大軍と戦い活躍した石黒太郎光弘は、福光城を築いて居城としたと言う。以後約300年に渡って石黒氏の本拠となり、一族の福光五郎・彦次郎らもここを拠点とした。文明年間(1469~87年)の城主石黒右近光義は加賀守護富樫政親の求めに応じ、1481年、井波瑞泉寺を討伐するための軍勢を起こした。山田川の田屋川原で一向一揆勢と激突し、敗れて安居寺で自刃した。光義の滅亡により、福光城は放棄されたと言う。
尚、木曽義仲の愛妾で女武者でもあった巴御前は、義仲滅亡後に侍所別当和田義盛に嫁し、1213年の和田合戦で義盛が滅亡すると、かつて義仲軍で共に戦った旧知の石黒光弘を頼って福光に来住し、出家して余生を送ったとの伝説がある。
福光城は、小矢部川西岸の福光市街地の只中にあり、現在は栖霞園という郷学所跡となっている。栖霞園は周囲より1.5m程の高台となっており、東西に長い長方形の区画で、これが往時の主郭であろうか?周囲は一面の宅地(市街地)となって遺構は湮滅しており、往時にどの様な縄張りだったのかを推測するのは困難である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559084/136.869221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
福光城は、福満城とも記載され、この地の豪族石黒氏の居城である。石黒氏は、古代の豪族利波氏の流れを汲み、平安末期には加賀の林氏との姻戚関係を背景として、利仁流藤原氏を名乗り、福光周辺にあった石黒庄を名字の地とした。治承・寿永の乱(所謂源平合戦)の際、1183年の倶利伽羅(砺波山)合戦で他の越中武士と共に木曽義仲軍に加わり、平家の大軍と戦い活躍した石黒太郎光弘は、福光城を築いて居城としたと言う。以後約300年に渡って石黒氏の本拠となり、一族の福光五郎・彦次郎らもここを拠点とした。文明年間(1469~87年)の城主石黒右近光義は加賀守護富樫政親の求めに応じ、1481年、井波瑞泉寺を討伐するための軍勢を起こした。山田川の田屋川原で一向一揆勢と激突し、敗れて安居寺で自刃した。光義の滅亡により、福光城は放棄されたと言う。
尚、木曽義仲の愛妾で女武者でもあった巴御前は、義仲滅亡後に侍所別当和田義盛に嫁し、1213年の和田合戦で義盛が滅亡すると、かつて義仲軍で共に戦った旧知の石黒光弘を頼って福光に来住し、出家して余生を送ったとの伝説がある。
福光城は、小矢部川西岸の福光市街地の只中にあり、現在は栖霞園という郷学所跡となっている。栖霞園は周囲より1.5m程の高台となっており、東西に長い長方形の区画で、これが往時の主郭であろうか?周囲は一面の宅地(市街地)となって遺構は湮滅しており、往時にどの様な縄張りだったのかを推測するのは困難である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559084/136.869221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
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