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天堂城(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7428.JPG←殿様屋敷
(2020年11月訪城)
 天堂城は、能登守護畠山氏の重臣温井氏の居城とされる。温井氏は、元々輪島の国人領主で、南北朝時代以降、大屋荘の地頭であった長氏の勢力が後退すると、次第に勢力を拡大したらしい。温井氏の初見は文明年間(1469~87年)と明応年間(1492~1501年)の神社棟札で、温井備中俊宗・代官温井彦右衛門尉為宗の名が見えると言う。俊宗の子孝宗は兵庫助を名乗り、能登守護畠山義統・義元・慶致・義総の4代に仕えたが、1531年の加賀一向一揆の内紛(享禄の錯乱)で、加州三ケ寺を支援した畠山氏の軍勢に加わって加賀に出陣し、河北郡太田の合戦で討死した。跡を継いだ総貞(備中入道紹春)は、畠山義総に文武の才を買われて重用された。義総が没して嫡子義続が跡を継ぐと、畠山氏の重臣層を巻き込んだ内訌を生じ、遊佐続光一党と温井一族が対立、七尾城を巡って攻防が繰り広げられた。1551年春頃、両派の和睦が成立して内乱が収束すると、主君義続は傀儡化され、畠山七人衆と呼ばれる重臣層による合議体制が成立した。その中では、温井備中入道紹春と遊佐美作守続光の二人が双璧であった。1554年頃、紹春はライバルの遊佐続光を越前に追って専権を確立した。しかし1556年、大名権力の回復を目指す畠山義綱は紹春を謀殺し、温井・三宅の一族は加賀に逃れた。間もなく温井一党は、加賀・能登の一向一揆と結んで能登復帰の軍事行動を開始したが敗退した。1560年に畠山義綱が重臣の遊佐続光・長続連らによって追放され、義綱の嫡男で幼い義慶が擁立されると、景隆を中心とする温井・三宅一族は帰参を赦された。その後、七尾城では幼主義慶を擁した温井景隆らの重臣が加賀・越中の一向一揆と手を組み、上杉謙信の能登進出に抵抗した。1577年、謙信は七尾城を攻囲し、遊佐続光を内応させて七尾城を攻略した。温井景隆とその弟三宅長盛も上杉氏に臣従したが、謙信没後の1579年、景隆らは織田信長に通じて上杉勢力を能登から追放し、七尾城奪還に成功した。景隆は七尾城を占拠した畠山氏旧臣勢力の主将となり、織田氏に服属した。1582年6月、信長が本能寺の変で横死すると、景隆は石動山天平寺の衆徒と結んで、能登に入部していた織田氏の部将前田利家に叛し、鹿島郡荒山峠の合戦で敗れ、温井氏は滅亡した。

 以上、長々と温井氏の事績を書き綴ったが、温井氏の居城とされる天堂城は、その存在自体がよくわからない。というのも、遺構とされる山中を歩き回ったが、明らかな城郭遺構が確認できないのである。天堂城は、鳳至川上流域の西岸にそびえる標高244mの丘陵一帯に築かれているとされる。『日本城郭大系』では多数の曲輪群を擁した大規模な城としており、今は失われた現地解説板にはその曲輪群の配置が記載されていたが、殿様屋敷・兵庫屋敷・本丸などを探索しても、平場はあっても畑、その他は自然地形で明確な遺構は確認できなかった。空堀とされるものも自然地形と考えた方が良さそうである。城内の各所に案内表示があるものの、どこも未整備で、余計に訳がわからない。結局、天堂城とされるものは城ではないのではないだろうか?謎の多い城である。
空堀とされる地形→DSCN7422.JPG

 お城評価(満点=五つ星):?(評価不能)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.343038/136.868523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


石川県の歴史 (県史)

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