SSブログ

巣伏古戦場(岩手県奥州市) [その他の史跡巡り]

DSCN5250.JPG←古戦場碑
 巣伏の戦いは、蝦夷の族長アテルイ(阿弖流為)が征東将軍紀古佐美率いる朝廷の大軍を撃破した戦いである。『続日本紀』によれば、桓武天皇は789年、蝦夷勢力の拠点を制圧するため、紀古佐美を征東将軍に任じ、大軍をもって胆沢地方に侵攻させた。古佐美は征東軍を3軍(前中後)に分け、北上川を渡ってアテルイ率いる蝦夷軍を攻撃した。中後軍から各々2千人を選んで渡河し、アテルイの居所に着く頃に蝦夷軍300余人と迎撃戦となった。戦闘は征東軍が優勢で、村々を焼き払いながら進軍した。巣伏村で前軍と合流する予定であったが、前軍は蝦夷の別働隊に阻まれ、渡河できずにいた。そうした中、中後軍に蝦夷軍800人程が次々と来襲し、その激しい攻勢に征東軍は後方へと押し戻された。更に東の山上の蝦夷の伏兵400人程が征東軍の横・後方から急襲して挟み撃ちにし、征東軍は退路を断たれ総崩れとなった。結局征東軍は、戦死者25人、矢に当たった負傷者245人、川での溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人の損害を出して大敗したと言う。小軍が巧みな戦術で大軍を討ち破った、日本古代史上稀有な戦いであった。

 巣伏古戦場は、県道251号線の四丑橋付近で行われたとされる。「四丑」(しうし)の地名は、古代の「巣伏」(すふし)であったとされる。墓地の前に石碑と解説板が立っている。またここから南南西1.4kmの北上川対岸には、物見やぐらが立つ巣伏古戦場跡公園がある。現在ではのどかな田園地帯が広がっているだけだが、蝦夷の時代から前九年の役・後三年の役に至るまで、朝廷に翻弄された東北の歴史の重要な一コマである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.156962/141.173930/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


阿弖流為: 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選)

阿弖流為: 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 樋口 知志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2013/10/10
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント