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金ケ崎城(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5158.JPG←大庭外周の堀・土塁
 金ケ崎城は、藩政時代には金ケ崎要害と呼ばれ、伊達氏が領内に置いた21要害(城の一つ下のランク)の一である。城の起源は不明であるが、802年に坂上田村麻呂が蝦夷征討時に築いたとも、前九年合戦の際に安倍貞任の叔父金為行が居城としたとも、或いは新渡戸氏の西根城または南部氏と九戸氏の胆沢攻略の舞台となった和賀川崎城と同一のものとも言われるが、いずれも確証はない。1590年の葛西大崎一揆の後、この地が伊達領になると、北の南部氏に備える北辺防衛の拠点として金ケ崎城が築かれた。元和の一国一城令の後は金ケ崎要害と呼ばれた。城主は、1602年には桑折左衛門景頼が岩谷堂城から移って城主となったが、1614年に伊達秀宗が伊予宇和島藩に分枹された際に景頼は後見役として伊予に移った。翌15年には一関城主留守宗利が入ったが、宗利も1629年に水沢城に移され、その後しばらく空城となったらしい。1644年に大町備前定頼が東山藤沢城から2千石で移封され、以後幕末まで大町氏の支配下となった。

 金ケ崎城は、北上川南岸の段丘上に築かれている。西から順に二ノ丸・蔵館・本丸・東館・観音館、更に本丸の南には大庭(馬場)と呼ばれる外郭が築かれている。これらの曲輪の内、北上川に面した北辺部は川による浸食で削られ、蔵館に至っては全てが侵食されてしまっているらしい。現在城内は宅地化が進んで改変が進んでおり、特に本丸は住宅地に変貌してしまっている。しかし公園となっている二ノ丸の外周や大庭の外周には堀・土塁がよく残っている。本丸の外周にもわずかに堀の名残りが見られる。城内は民家が多いので確認できる遺構は限られているが、城の名残りはよく感じることができる。
二ノ丸南側の堀→DSCN5177.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.196800/141.124384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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