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鹿島館(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7435.JPG←主郭~二ノ郭間の空堀の屈曲部
 鹿島館は、奥州の戦国大名和賀氏の庶流鬼柳氏一族の居城である。鬼柳氏が、丸子館から居城を移した後の本城と推測されている。1592年に南部氏が、豊臣秀吉の命を受けて領内諸城を破却した際に提出した『南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上』にある「南部之内和賀郡 鬼柳 平城 破却 南部主馬助持分 代官鬼柳源四郎」が鹿島館のことを指しており、1590年の奥州仕置で和賀氏が改易となると、最後の城主鬼柳伊賀守盛正も没落した。盛正は1600年の岩崎一揆に参加して敗れた。

 鹿島館は、和賀川南方の段丘北辺部に築かれている。これは前の居城である丸子館と同じ選地であり、距離もわずか1.2km程しか離れていない。同じ様な場所なのにわざわざ居城を移したのは、おそらく戦乱の激化に伴い、台地に天然の深い谷戸が入り込んだ要害地形を取り込んだ、より防御性の高い城を必要としたためであろうか。
 現地解説板によれば、鹿島館は8つの曲輪で構成されていたとされる。成沢川に面した段丘東端部に主郭、その南西側に二ノ郭、主郭西側に3郭・4郭が南北に並び、更にその西側に5郭・6郭が南北に並ぶ。また成沢川を挟んで東の段丘北西端部に7郭、更にその南西にやや離れて8郭があったらしい。しかしこれらの曲輪の内、主郭・二ノ郭は採土で大きく破壊され、三ノ郭も北半が正覚寺の墓地造営のために大きく削られてしまっている。そのため、遺構の残存状況はかなり悪い。主郭は全体の1/3に当たる北西部が失われているが、南側に土塁と折り歪みのある空堀が残る。二ノ郭は、ほとんど全壊に近い。主郭西には天然の谷戸を利用した大空堀があって、3郭との間を分断している。3郭の後部には低土塁と4郭との間を区画する空堀がある。3郭・4郭と5郭・6郭の間にも空堀が穿たれて区画され、4郭の西・南にも空堀が残る。6郭南西部にも土塁・空堀があるが、5郭・6郭の間の区画は明瞭ではない。また6郭南の空堀は埋められてしまっている部分もあり、城域の区画がわかりにくい。一方、7郭には鬼柳氏の墳墓群があり、7郭周囲にも小さな空堀が弧を描いて残っている。8郭は時間の都合で確認しなかった。
 以上が鹿島館の遺構であるが、一時公園化された主郭は現在は薮だらけになっている。長期的に維持管理できないなら、公園化による高木の伐採はやめてほしい。高木がなくなると、日当たりが良くなって、雑草の繁茂の勢いが物凄いからである。また遺構面では、丸子館と比べると破壊のせいもあって随分見劣りする。空堀の規模も、全体的には丸子館ほどの大きさはなく、わざわざ新城を築いて本拠を移した理由が、遺構面からはよく理解できなかった。
4郭周囲の空堀→DSCN7528.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.269432/141.086683/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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