丸子館(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]
←前館西側の空堀
丸子館は、三ヶ尻館とも言い、葛西氏の一族三ヶ尻氏の居館である。三ヶ尻氏は、葛西三郎詮義の3男清義を祖とし、2代又次朗清秀、3代加賀恒逢と3代に渡る居館となった。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、主家の江刺氏はその主君葛西氏の改易と共に没落した。しかし江刺氏は、家老の三ヶ尻加賀恒逢が奥州仕置軍の軍監浅野長政に主家の再興を直訴し、その忠志を賞された結果、南部信直に仕えることとなり、家臣となった三ヶ尻氏は1603年に南部領和賀郡倉沢館の館主となった。以後、丸子館は廃館となった。
丸子館は、北上川西方の段丘辺縁部に築かれている。空堀で区画された方形の曲輪群で構成された群郭式の縄張りで、中核の曲輪を丸子館、その南に東から順に前館・後館、これらの西側に三瓶屋敷が置かれている。現在は、前館が民家となっていて内部確認できず、また他の曲輪は耕作放棄地の深い薮で踏査不能となっている。館内を貫通する車道は丸子館と前館・後館とを画する空堀の跡で、また前館西側の空堀が車道から確認できる。しかし丸子館・後館西側の空堀は深い薮で全くその形状を追うことができない。町史跡であり、解説板・標柱も立っているが、かなり残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.214375/141.114578/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
丸子館は、三ヶ尻館とも言い、葛西氏の一族三ヶ尻氏の居館である。三ヶ尻氏は、葛西三郎詮義の3男清義を祖とし、2代又次朗清秀、3代加賀恒逢と3代に渡る居館となった。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、主家の江刺氏はその主君葛西氏の改易と共に没落した。しかし江刺氏は、家老の三ヶ尻加賀恒逢が奥州仕置軍の軍監浅野長政に主家の再興を直訴し、その忠志を賞された結果、南部信直に仕えることとなり、家臣となった三ヶ尻氏は1603年に南部領和賀郡倉沢館の館主となった。以後、丸子館は廃館となった。
丸子館は、北上川西方の段丘辺縁部に築かれている。空堀で区画された方形の曲輪群で構成された群郭式の縄張りで、中核の曲輪を丸子館、その南に東から順に前館・後館、これらの西側に三瓶屋敷が置かれている。現在は、前館が民家となっていて内部確認できず、また他の曲輪は耕作放棄地の深い薮で踏査不能となっている。館内を貫通する車道は丸子館と前館・後館とを画する空堀の跡で、また前館西側の空堀が車道から確認できる。しかし丸子館・後館西側の空堀は深い薮で全くその形状を追うことができない。町史跡であり、解説板・標柱も立っているが、かなり残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.214375/141.114578/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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