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森田城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8115.JPG←背後の堀切
 森田城は、下野の名族那須氏の一族森田氏の居城である。1187年に、那須資隆の長男太郎光隆がこの地に分封されて森田城を築き、森田氏を称した。光隆は子に恵まれず、弟泰隆の子を養子に迎えたが、その養子にも嗣子がなく、森田氏は2代で断絶、城も一旦廃城となった。時代は降って戦国中期の1546年に、烏山城主那須高資は弟資胤を森田城主とし、森田氏を再興した。1551年、千本資俊が宇都宮氏重臣の芳賀高定と謀って高資を千本城で誘殺すると、資胤が那須宗家を継いで烏山城に入り、代わって弟の福原城主福原資安(後に資邦)が森田氏を継いだ。その後、資信が跡を継いだが、1590年に豊臣秀吉によって那須資晴が改易となると、森田氏も没落して森田城は廃城となった。

 森田城は、荒川南岸に突き出た比高60m程の丘陵上に築かれている。西麓にある芳朝寺の脇から登道が整備されている。この登道は城の背後の堀切から落ちる竪堀で、従ってこれを登っていくと堀切に至る。そこから腰曲輪を経由して主郭に至る道が付いている。中心に主郭を置き、その北側に段差で区画された舌状の二ノ郭を築いている。二ノ郭には土塁がないが、主郭には東辺から南辺にかけて土塁が築かれている。これらを全周取り巻くように腰曲輪が築かれ、その半分ほどは外周に土塁が築かれて横堀状となっている。西側では腰曲輪は2段築かれ、上段は更に食い違って上下に重なり、主郭西側に通じる虎口を構成している。この他、西の下段の腰曲輪の先端から西斜面に竪堀が落ちており、この竪堀は近世に森田を寮した森田大田原氏の墓所の裏に落ちてきている。南東には腰曲輪の張り出しがあり、その脇に竪堀が落ちている。北斜面にも竪堀があるとされるが、薮で確認できなかった。
 森田城は、小規模な城であるが遺構はよく残っている。ただ薮が多く、主郭にある解説板も四阿も薮に埋もれかかっている。今後の整備に期待したい。
東側の主郭切岸と腰曲輪→DSCN8166.JPG
DSCN8221.JPG←西側の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632172/140.127933/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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