大窪館(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]
←台地基部の堀切
大窪館は、窪館・大久保城とも呼ばれる。城があったのは戦国時代と推測され、城主は小山播磨、或いは小山刑部と伝えられる。小山播磨と小山刑部は、同一人物か一族であったと考えられるが、その事績は不明である。いずれにして戦国期の勢力圏としては葛西氏の領域であり、小山氏は葛西氏の家臣であったものだろう。
大窪館は、桜川の河口近くに突き出た比高40m程の丘陵上に築かれている。主郭や腰曲輪の一部が畑となっており、東麓から登道が付いている。中央が少しくびれた瓢箪型に近い形状の主郭と、その周囲の1~2段の長い帯曲輪を廻らした縄張りとなっている。更に主郭の東前面には数段の腰曲輪が築かれている。主郭内はわずかな段差で2段に分かれ、東側の方がやや高く、面積も広い。北西の台地基部には1条の堀切が穿たれて分断されている。遺構としては以上で、簡素な構造の城館である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.690911/141.485903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
大窪館は、窪館・大久保城とも呼ばれる。城があったのは戦国時代と推測され、城主は小山播磨、或いは小山刑部と伝えられる。小山播磨と小山刑部は、同一人物か一族であったと考えられるが、その事績は不明である。いずれにして戦国期の勢力圏としては葛西氏の領域であり、小山氏は葛西氏の家臣であったものだろう。
大窪館は、桜川の河口近くに突き出た比高40m程の丘陵上に築かれている。主郭や腰曲輪の一部が畑となっており、東麓から登道が付いている。中央が少しくびれた瓢箪型に近い形状の主郭と、その周囲の1~2段の長い帯曲輪を廻らした縄張りとなっている。更に主郭の東前面には数段の腰曲輪が築かれている。主郭内はわずかな段差で2段に分かれ、東側の方がやや高く、面積も広い。北西の台地基部には1条の堀切が穿たれて分断されている。遺構としては以上で、簡素な構造の城館である。
主郭塁線と帯曲輪→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.690911/141.485903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平山城
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