末崎城(岩手県大船渡市) [古城めぐり(岩手)]
←主郭周囲の空堀
末崎城は、武田丹後・式部大輔信政父子が城主であったとも、及川伊賀が城主であったとも言われる。いずれにしても葛西氏の家臣で、1590年の葛西氏改易と共に没落した。
末崎城は、門之浜湾の東側にある館ヶ崎と呼ばれる半島上に築かれた城である。海を挟んで対岸には蛇ヶ崎城がある。半島付け根の東部に横長長方形の主郭を置き、その北と西に空堀を穿ち、帯曲輪を廻らしている。主郭内は段差で東西2つの平場に分かれているようだが、東側は進入不能の薮で全く形状が追えない。西半分だけ薮払いされ、城址石碑が立っている。周囲の空堀は、一部埋まっているのか腰曲輪状になっている部分もある。また帯曲輪の東端部は高くなっていて、物見台になっている。北西には緩斜面が広がっており、縁に段差が見られるが、曲輪の跡かどうかはよくわからない。この緩斜面ではキツネが逃げていった。主郭の南には切岸の下に緩斜面がある。半島は主郭の南西に伸びているが、一部に段差が見られるもののほとんど自然地形である。その先に谷があり、その南西にまた丘陵があるが、丘陵の上に登ると縁に低土塁のある平場があるので、ここも城域だったと思われる。しかしその先はまた自然地形である。結局、主郭周辺以外は取りとめのない城である。尚、この城も2月の北東北であるがマダニがいるので要注意である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.990378/141.725940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
末崎城は、武田丹後・式部大輔信政父子が城主であったとも、及川伊賀が城主であったとも言われる。いずれにしても葛西氏の家臣で、1590年の葛西氏改易と共に没落した。
末崎城は、門之浜湾の東側にある館ヶ崎と呼ばれる半島上に築かれた城である。海を挟んで対岸には蛇ヶ崎城がある。半島付け根の東部に横長長方形の主郭を置き、その北と西に空堀を穿ち、帯曲輪を廻らしている。主郭内は段差で東西2つの平場に分かれているようだが、東側は進入不能の薮で全く形状が追えない。西半分だけ薮払いされ、城址石碑が立っている。周囲の空堀は、一部埋まっているのか腰曲輪状になっている部分もある。また帯曲輪の東端部は高くなっていて、物見台になっている。北西には緩斜面が広がっており、縁に段差が見られるが、曲輪の跡かどうかはよくわからない。この緩斜面ではキツネが逃げていった。主郭の南には切岸の下に緩斜面がある。半島は主郭の南西に伸びているが、一部に段差が見られるもののほとんど自然地形である。その先に谷があり、その南西にまた丘陵があるが、丘陵の上に登ると縁に低土塁のある平場があるので、ここも城域だったと思われる。しかしその先はまた自然地形である。結局、主郭周辺以外は取りとめのない城である。尚、この城も2月の北東北であるがマダニがいるので要注意である。
帯曲輪東端の物見台→
←南西部丘陵に残る土塁お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.990378/141.725940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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