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蛇ヶ崎城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8537.JPG←主郭背後の大堀切
 蛇ヶ崎城は、天正年間(1573~92年)に葛西氏の家臣及川掃部重綱の居城であったと伝えられる。城内にある八幡神社の社伝では、1385年に及川道光が城主であったと言う。一方別説では、馬籠千葉氏の庶流で矢作内館城主矢作千葉氏(重胤?)の3男広次が蛇ヶ崎城を築き、以後千葉氏10代に及んだが、1590年の奥州仕置で主家葛西氏が改易となると、蛇ヶ崎城主千葉信定は葛西紀伊と名を改め、伊達政宗の家士となった。そしてそれに代わって東山中川城(鳥海館遅沢館か?)主及川掃部が蛇ヶ崎城に居住したが、間もなくこの城を引き上げて東磐井郡猿沢に居住したと言う。しかし猿沢城の事績によれば、猿沢城主及川掃部信次は1559年に及川一族が葛西太守に武力蜂起した及川騒動(柏木合戦)に加担して改易され、気仙郡蛇ヶ崎に逃れたとある。及川掃部が同族を頼って蛇ヶ崎城に逃れたと考えるのが自然で、蛇ヶ崎城主は及川氏が城主であった可能性が高いのではないだろうか。そして、葛西氏滅亡後にかつての居城猿沢城に戻ったと考えられる。
 また、葛西大崎一揆についての伝承では、桃生郡中津山香取(神取山城)に立て籠もった1700余騎の大将として気仙郡蛇ヶ崎城主及川掃部頭重綱の名が見える。神取山城の葛西勢は、蒲生氏郷軍に攻撃されて潰走し、及川掃部頭は佐沼城の葛西晴信に合流し、落城時の乱戦の中、奮戦して自害したと言う。葛西氏の歴史については不明点や史料上の食い違いや混乱が多いので、どの伝承が正しいのか不明である。

 蛇ヶ崎城は、門之浜湾の南に突き出た小半島に築かれている。湾の対岸には末崎城がある。城内は3つの曲輪群で構成されるが、蛇ヶ崎園地や畑・神社・民家などになっていて、大きく改変されている。台地基部を断ち切る大堀切が穿たれ、この堀切から大竪堀が南西に向かって落ちている。堀切は円弧状で、土橋が見られる。その南東側に主郭がそびえている。主郭は一段高い細長い平場と、その南の広い平場に分かれている。二ノ郭は八幡神社が建っている部分で、平場があるがはっきりした段・切岸がなく、明確な遺構に乏しい。二ノ郭先端部も小高くなっていて、蛇ヶ崎神社が建っている。二ノ郭の南に低地を挟んで、小高くなった三ノ郭がある。三ノ郭も何段かの平場に分かれているが、公園化されているせいもあって遺構は明確ではない。結局のところ蛇ヶ崎城は、主郭背後を分断する堀切・竪堀だけが異彩を放つ城である。
主郭→DSCN8554.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.984557/141.714749/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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