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北の城・下の城(長野県宮田村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2271.JPG←北の城主郭の土塁と空堀
 北の城・下の城は、歴史不詳の城である。中世に中越の地頭職であった中越氏に関係する城であったと推測されている。中越氏は、1400年の大塔合戦に参陣していることが知られる。戦国時代に甲斐の武田信玄が伊那を制圧すると、1561年に高遠之新衆として武田氏に属した者の中に中越与次郎の名が見える。

 北の城・下の城は、天竜川に望む西の段丘辺縁部に築かれている。まず北の城は、天竜川沿いの氾濫原が途切れて、川筋が狭まった部分の北端にある。現在主郭は公園に、外郭は畑に変貌している。主郭は目の形をした曲輪で、外周に土塁を築き、外側に空堀を廻らしている。主郭の南部を車道が貫通し、また公園化による改変を受けているが、西側に虎口が残っている。西には西曲輪、南には南曲輪があったとされるが、耕地化による改変でどこまでが城域だったのか判然としない。
 次に下の城であるが、北の城の南に大沢川を挟んで築かれている。天竜川に沿って南北に3つの曲輪が並んでいる。中央が主郭で、台形に近い形をしており、外周に土塁が築かれ、西と南に空堀が穿たれている。虎口は西側中央に開かれている。主郭の北には帯曲輪が一段築かれ、その下方に三ノ郭がある。三ノ郭は内部が東西2段に分かれ、北に腰曲輪を築いている。腰曲輪の北辺は大沢川に望む急崖となっているが、竪堀地形が3つある。また主郭の南には空堀を挟んで二ノ郭がある。下の城は全域が山林となっているが、冬期であれば薮はそれほど酷くはない。西には外郭があったと思われるが、畑になっているので、往時の形態はわからない。
 以上が北の城・下の城で、小規模な城砦であるが、それぞれ形態が異なり、詰城と館城という役割の違いを示しているように思われる。
下の城主郭の土塁→DSCN2329.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【北の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.772483/137.960172/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【下の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.770133/137.960064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世崖端城
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