表木城(長野県宮田村) [古城めぐり(長野)]
←空堀と主郭切岸
表木城は、歴史不詳の城である。一説には面木(表木)氏の城であったとも、別説では、古くは勘林喜兵衛尉忠重、天文年間(1532~55年)には唐澤右衛門尉美久が居住したとも言う。面木(表木)氏は、1487年に高遠の諏訪継宗が伊那勢を率いて諏訪に攻め込んだ合戦で、真木氏・福島氏・高見氏らと共に討死している。また表木主膳は18貫文を有して表木に居住し、世々高遠城に属して天正年間(1573~92年)に家名を失ったとある。いずれにしても、表木城は室町前期頃にその母胎が築かれ、戦国期に武田信玄が伊那を制圧してこの地を支配した時期に城主は滅亡したと推測されている。
表木城は、天竜川西岸の河岸段丘辺縁部に築かれた城である。城の東辺部をJR飯田線が貫通していて、やや破壊を受けている。空堀で外周をコの字に囲んだ長方形の主郭を中心に、北に二ノ郭、南に三ノ郭を配している。二ノ郭の北と三ノ郭の南も、それぞれ空堀で周囲の台地と分断している。主郭は土塁で東以外の三方を囲んでいるが、線路で破壊された東辺にも土塁があった可能性がある。虎口は西側中央に築かれている。主郭周囲の空堀は規模が大きいが、薮だらけである。主郭内も薮で覆われている。三ノ郭は、内部が何段かに分かれ、土塁も築かれている。また線路の向こうにも三ノ郭の遺構が残り、東斜面に横堀が穿たれ、横堀は南側で折れて竪堀となって落ちている。以上が表木城の遺構で、土豪が築いた小規模な館城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.785783/137.945087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
表木城は、歴史不詳の城である。一説には面木(表木)氏の城であったとも、別説では、古くは勘林喜兵衛尉忠重、天文年間(1532~55年)には唐澤右衛門尉美久が居住したとも言う。面木(表木)氏は、1487年に高遠の諏訪継宗が伊那勢を率いて諏訪に攻め込んだ合戦で、真木氏・福島氏・高見氏らと共に討死している。また表木主膳は18貫文を有して表木に居住し、世々高遠城に属して天正年間(1573~92年)に家名を失ったとある。いずれにしても、表木城は室町前期頃にその母胎が築かれ、戦国期に武田信玄が伊那を制圧してこの地を支配した時期に城主は滅亡したと推測されている。
表木城は、天竜川西岸の河岸段丘辺縁部に築かれた城である。城の東辺部をJR飯田線が貫通していて、やや破壊を受けている。空堀で外周をコの字に囲んだ長方形の主郭を中心に、北に二ノ郭、南に三ノ郭を配している。二ノ郭の北と三ノ郭の南も、それぞれ空堀で周囲の台地と分断している。主郭は土塁で東以外の三方を囲んでいるが、線路で破壊された東辺にも土塁があった可能性がある。虎口は西側中央に築かれている。主郭周囲の空堀は規模が大きいが、薮だらけである。主郭内も薮で覆われている。三ノ郭は、内部が何段かに分かれ、土塁も築かれている。また線路の向こうにも三ノ郭の遺構が残り、東斜面に横堀が穿たれ、横堀は南側で折れて竪堀となって落ちている。以上が表木城の遺構で、土豪が築いた小規模な館城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.785783/137.945087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
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