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砂越城(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

DSC06523.JPG←本丸の土塁と水堀
 砂越城は、大宝寺氏の庶流砂越氏の居城である。現地解説板によれば、元々は播磨の豪族赤松氏の三男石黒氏が1154年に築いたという。赤松氏といえば、元弘の争乱から南北朝にかけて武功を上げてのし上がった土豪であるが、それに先立つこと180年あまり前に既にこのような系譜が辿れるとは思いもよらなかった。、まだ時代は保元の乱に始まる源平争乱期に入る頃であり、赤松氏は単なる地方の小さな土豪であったろう。その後、1189年に源頼朝が砂越氏を出羽の郡司に任じ、砂越氏はこの城を居城とした。室町時代に入った1443年、砂越氏信は戦いに敗れて落城し、斯波家氏の4代矢口将監氏益が城主となった。1518年には大宝寺氏の舎弟氏維が砂越城に入り名代となったが、後に本家に逆らって庄内北部を掌握する勢力に成長した。砂越氏維に攻められた大宝寺氏は、大宝寺城を焼かれてしまい山城の尾浦城に本拠を移した。最上・上杉の庄内争奪戦の際、砂越氏は城を開いて安東秋田氏に身を寄せたという。その後は上杉氏が城代を置いたが奥州の関ヶ原といわれる出羽合戦で炎上し、1616年に廃城となった。
 このように度々城主が入れ替わった城であるが、かつては本丸、二ノ丸の外側に総構えを持つそこそこ規模の大きな城であったらしい。本丸は現在、砂越城跡本丸公園となって整備されている。中央には諏訪神社が置かれており、周囲には土塁が良く残っている。また水堀は本丸西側だけが残っている。本丸土塁には、木橋と常陸の逆井城のものを参考にして建てたという櫓台を復元している。二ノ丸は現在長応寺になっていて、周囲よりやや高い土地になってはいるが土塁は湮滅しているようである。それ以外が市街化されていて遺構はほとんど残っていないが、本丸より西側300mほどのところには、かつての総構えと見られる土塁らしき土盛りと外堀に当たる小川、搦戸門跡に当たると見られる橋(道路)が残っている。この城のようにわずかに残った遺構を壊すことなく公園化して城跡が残っているのはうれしい限りだ。
総構跡と思われる小川と土盛り→DSC06547.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.889630/139.913464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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雪んこkeikai師走

素晴らしいですよね(*^-^)b
by 雪んこkeikai師走 (2008-12-27 08:08) 

アテンザ23Z

訪問いただきありがとうございます。
小さい城ながらも、きちんと城跡公園として整備されているのは、
本当に素晴らしいことだと思います。
by アテンザ23Z (2008-12-27 10:47) 

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