武田信俊館(埼玉県小川町) [古城めぐり(埼玉)]
←境内の武田家墓所
武田信俊館は、甲斐源氏武田家庶流の居館跡と伝えられており、現在輪禅寺が置かれている。信俊の父信実は武田信玄の異母弟で、甲斐国河窪村を領して河窪氏を称した。信実は、1575年の長篠合戦で長篠城を攻囲する鳶ノ巣砦を守備していたが、徳川勢の奇襲を受け、防戦に努めたが討死した。その子、新十郎信俊が跡を継いだが、1582年に武田家が滅亡すると信俊は徳川家康に仕えた。1591年に武蔵の地、宮脇に知行地を移されて移住し、父信実の追福のため輪禅寺を造営して寺号を改めたという。孫の信貞の時、4代将軍家綱の命により姓を武田に復し、幕末まで続いた。
居館跡らしい遺構はほとんど皆無で、わずかに土塁状のものがあるにはあるが、土地造成の際にできたものと見る方が良さそうである。境内には武田一族の墓所がある。これを見に来るだけでも良いかもしれない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.071961/139.281471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
武田信俊館は、甲斐源氏武田家庶流の居館跡と伝えられており、現在輪禅寺が置かれている。信俊の父信実は武田信玄の異母弟で、甲斐国河窪村を領して河窪氏を称した。信実は、1575年の長篠合戦で長篠城を攻囲する鳶ノ巣砦を守備していたが、徳川勢の奇襲を受け、防戦に努めたが討死した。その子、新十郎信俊が跡を継いだが、1582年に武田家が滅亡すると信俊は徳川家康に仕えた。1591年に武蔵の地、宮脇に知行地を移されて移住し、父信実の追福のため輪禅寺を造営して寺号を改めたという。孫の信貞の時、4代将軍家綱の命により姓を武田に復し、幕末まで続いた。
居館跡らしい遺構はほとんど皆無で、わずかに土塁状のものがあるにはあるが、土地造成の際にできたものと見る方が良さそうである。境内には武田一族の墓所がある。これを見に来るだけでも良いかもしれない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.071961/139.281471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
武田家墓所だけで一回お伺いする価値はありそうですね。
by ノリパ (2009-05-04 18:18)
>ノリパさん
中々重厚な墓所でした。お勧めです。
by アテンザ23Z (2009-05-05 00:53)
是非、蕨城址にもお越しください。
(http://kyouichi.blog.so-net.ne.jp/2008-12-31)
by take (2009-05-05 07:25)
>takeさん
夏に武蔵の平城巡りをしようと思っていますので、
ぜひ参考にさせていただきます。
by アテンザ23Z (2009-05-05 23:49)