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大多喜城(千葉県大多喜町) [古城めぐり(千葉)]

DSC01063.JPG←本丸西側の腰曲輪
 大多喜城は、徳川家康の関東入封後に徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝によって新たに築かれた近世城郭である。この地域には、元々真里谷武田氏によって築かれ、後に里見氏属城となった大多喜根古屋城があったが、根古屋城に入城した忠勝は城の防御が弱い為、家康に願い出て新たに大多喜城を築いた。以後城は、城主を変えながら幕末まで存続した。

 大多喜城は、西から東に張り出した山地が夷隅川に臨んだ要害地形を巧みに取り込んだ平山城で、山上に本丸を置き、その東麓に二ノ丸・三ノ丸を置いて周囲を水堀で防御していた。現在は、二ノ丸・三ノ丸は住宅地や大多喜高校の敷地となって遺構は湮滅しているが、山上の遺構は比較的よく残っている。本丸には復元天守が置かれて博物館となり、車道も通っているので、旧状通りとはいかないが、本丸周囲の低土塁や北西側に残る2段の平場など、かつての姿を髣髴とさせる遺構が残っている。本丸の西側には平場を挟んで、物見台を兼ねたと思われる副郭がそびえている。中間の平場は二ノ丸公園と命名されているが、二ノ丸ではなく繋ぎの曲輪と言うべきである。そして、それら以上によく残っている遺構が、本丸南斜面と副郭南西側に作られた腰曲輪で、堀切や横堀によって防御を固めている。ここの堀切はやや変わっていて、曲輪相互の分断を目的とした堀切本来の目的に沿うものではなく、曲輪外周の防御線として構築されたものの様である。そういう意味では横堀の思想に近いようだ。腰曲輪は本丸との高低差が大きく切岸も急なので普通なら近づけなさそうだが、訪城した時はたまたま梯子が置いてあり、樹木の伐採をしたばかりのようで、見て回るのには好都合だった。また副郭の北を通る車道の横に横堀が残り、堀の解説板が建っている。その他では、二ノ丸跡の大多喜高校敷地内に大井戸跡と薬医門(移築)が残っている。また東方の大手門跡には標柱が建ち、左右の土塁がわずかに残っている。

 全体に改変はされているものの、城郭の雰囲気は伝わってくる。築城年代では近世城郭の範疇に入るものの、山上の遺構群は中世山城の雰囲気が濃厚に漂う城である。
本丸南の堀切→DSC01050.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.285957/140.239033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:近世平山城
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fuzzy

本多忠勝は今人気あるのですよ、家康の武功派武将ではNO1でしょう。
蜻蛉切の名槍を用い数々の戦いで傷一つ負わなかったと云われます。
「家康に過ぎたるものが二つある、唐のカシラと本多平八」と謳われました。千葉に在る城で重要な拠点の大多喜城現存してないのが残念ですね
by fuzzy (2009-11-11 11:54) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
本多忠勝は人気はあるのですが、大河ドラマなどでは出番があまりないのが不思議です。もっとドラマでも活躍してもよさそうなんですけど・・・。
by アテンザ23Z (2009-11-11 18:59) 

fuzzy

アテンザ23Zさん、確かに徳川家の武将は本多・榊原・酒井などクローズアップされていないのは不思議です。
by fuzzy (2009-11-12 14:13) 

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