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久留里城(千葉県君津市) [古城めぐり(千葉)]

DSC00917.JPG←北尾根の堀切
 子供の頃、毎年夏になると南総の祖父母の旧家に親戚一同が行くことになっていて、その際に房総半島の山地を縦断して鴨川方面に抜ける裏道を通ると、よく久留里城の脇を通り抜けていたものである。しかしその頃は城に別段の興味はなく、ただ通り過ぎていただけであった。成人してからも自分の車で同じ道を通ったことが何度かあるが、やはり何事もなく通り過ぎていた。城巡りを始めてから、今回初めて房総に行く機会ができ、ようやく久留里城を訪れることができた。

 久留里城は、上総に入部した真里谷武田氏の祖、武田信長が真里谷城庁南城の2城を支配拠点として築き、合わせて周辺に築いた支城網の一角として築城された。この頃の久留里城は「古久留里城」と呼ばれ、現在の城域より北の小丘陵上にあった。その後、一族の内紛で揺れる真里谷武田氏に対して里見氏が勢力を伸ばし、3代城主武田真勝は、里見義堯と戦った挙句、久留里城を明け渡した。里見義堯は、天文年間に新たに城を築き直して久留里城に本拠を移し、以後里見氏全盛時の居城となった。里見氏制圧を目論む小田原北条氏は、再三この城を攻めたが失敗した。1590年の小田原の役では、里見義康は遅参した為上総を没収され、久留里城には徳川氏譜代の大須賀氏が入り、以後城主を変えて一時廃城ともなったが、1742年に上野沼田から黒田直純が移封され、約3年の歳月を掛けて城を修築し、幕末まで存続した。

 久留里城は、久留里市街の南東の比高100m程の山上に築かれた山城である。山頂の本丸天守を中心にして、北西・北・南東の三方に伸びる尾根上に幾つもの曲輪を築き、要所を堀切で分断している。近世城郭として使用されたにも関わらず、山上の遺構はよく中世山城の趣きを色濃く残しており、里見氏時代の城郭構造がほとんど残っているものと考えられる。駐車場から伸びる舗装路ではなく、尾根上のハイキングコースを登って本丸まで行けば、途中には火薬庫跡の平場や木戸口跡と思われる土塁、尾根上を分断する堀切などを見ることができる。また本丸や二ノ丸周囲にも、それを防御する腰曲輪や段曲輪が幾つも見られ、それらだけでも中世山城の趣きを楽しむことができる。しかし、本丸から北尾根や南東尾根にもハイキングコースが整備されており、夏場でもクモの巣などに遮られることなく遺構を見ることができ、それらを辿ると曲輪群と共に深さ5m程もある大堀切や横堀・土橋も見ることができる。

 基本的には痩せ尾根上に曲輪を細長く展開した山城であるが、一部の尾根上の曲輪は兵の駐屯も可能な広さを持ち、広い城域と合わせてある程度の居住性も確保した要害と考えられる。本丸には元からの天守台の脇に復興天守が建ち、ハイキングコースを通れば家族連れでも気軽に楽しめるので、山城初心者にはうってつけの城であろう。
二ノ丸の段曲輪(鶴の曲輪)→DSC00871.JPG
DSC00905.JPG←本丸の腰曲輪(弥陀曲輪)
横堀と土橋→DSC00951.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.287778/140.089718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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fuzzy

房総は平地が少なく、山に城を築くのが普通なのかな?要害な地に城、有事の際には当然も平時には必要性が薄く厄介な存在ですね。その城で私は生活する気になれません。久留里城は何度も横を通るのに私も立ち寄っていません。
by fuzzy (2009-11-06 14:43) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
山城の場合、根古屋と言って、
麓の平地に居館や家臣団の住居を作る場合が多いです。
やっぱり平時には使いづらいし、居住性が悪すぎてダメなんでしょうね。
あくまで戦乱の世の産物なのでしょう。
by アテンザ23Z (2009-11-07 02:00) 

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