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入間川御所(埼玉県狭山市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC01578.JPG←徳林寺
 入間川御所は初代鎌倉公方の足利基氏が、その若かりし頃を過ごした場所である。足利尊氏は、元々関東に嫡男義詮(幼名千寿王)を置いていたが、幕府の二頭体制が原因となって、政務の統括者であった弟直義との政争が生じると、執事の高師直に反乱を起こさせて直義を失脚させた。この時、直義の代わりに政務の統括者として置いたのが義詮で、鎌倉から義詮を京に呼び寄せる代わりに、次男の基氏(幼名光王)を鎌倉に下向させて関東の押さえとした。しかしそれから間もなく直義派の反撃が始まり、ここに観応の擾乱と呼ばれる、幕府と足利一門を二分する抗争が発生した。最終的に京都を落ちて、北陸経由で関東で体勢を立て直そうとした直義であったが、尊氏の軍に次々と撃破され、ついに箱根で捕らえられた。尊氏はそのまま鎌倉に入ると、幕府内の分裂につけ込んで蜂起した新田義宗の軍と武蔵野で戦い(武蔵野合戦)、一旦は鎌倉を放棄するものの間もなく奪還した。その後約2年にわたって関東にいる間に、尊氏は鎌倉府の建て直しを図った。そして尊氏が再び京に向かう前日の1353年7月28日、まだ幼い基氏に尊氏の信任厚い畠山国清を補佐に付け、入間川に進出させて、直義方であった上杉憲顕や上野・越後の新田党への押さえとした。この時、基氏が拠点とした場所がこの入間川御所である。以後約7年にわたって基氏は畠山国清を執事としてこの地に留まり、鎌倉府の体制を確立していった。

 入間川御所であるが、その候補地はいくつかあり、その有力候補が狭山の徳林寺である。残念ながら市街化によって遺構は湮滅しており、かつての面影は微塵もない。しかしかつての一時期は、ここが東国の中心であった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.859370/139.410474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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fuzzy

狭山市は旧地名は入間川と言い、鎌倉街道・上道が通り、鎌倉と由縁の深い土地です、新田義貞や鎌倉公方が此の地に滞在関与していたのです、今では住宅地として開発され、当時の面影は見るすべもありません、
八幡神社・徳林寺に若干偲ぶことができるくらいです。国道16号には清水神社があり、木曽義仲の嫡子義高が鎌倉幕府から逃走の末首を討たれた終焉の地で祀られています。街の歴史は十分なのですが、史跡などが無く残念です。
by fuzzy (2009-12-05 15:25) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
由緒ある土地なのに、明確な遺跡がないのは残念ですね。清水神社もいずれ行ってみたいと思います。
by アテンザ23Z (2009-12-06 23:37) 

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