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栗橋城(茨城県五霞町) [古城めぐり(茨城)]

DSC06300.JPG←城址遠望
 栗橋城は、簗田氏とともに古河公方家臣団の双璧をなした野田氏の居城である。簗田氏が築いた関宿城と共に、関東管領山内上杉氏から古河公方の鴻巣御所の南側を防衛する拠点として築かれたと考えられる。野田氏の出自は諸説あってはっきりしないが、一説では鎌倉時代初期から足利氏と密接な関係を持っていたとも言われている。野田成朝・政朝の親子の名乗りは、それぞれ古河公方足利成氏・政氏の偏諱を受けたものと考えられ、1528年の足利晴氏の元服式に際しては、政朝は一色氏・簗田氏ら古河公方宿老の最上位の一人としてその名を連ねたという。小田原の北条氏綱・氏康の勢力が伸張し、古河公方にその影響力を及ぼし始めると、古河公方家内部で北条氏に対する対応で分裂が生じ、足利晴氏が嫡子藤氏と共に、義氏を擁立した北条氏康に対して反旗を翻すと、野田政保は氏康の強い圧力の下、義氏側に立って古河公方家の内訌を落着させ、以後、野田氏は北条氏の強い影響下に置かれることとなった。そして1567年頃には、北条家中の北関東方面軍総司令官とも言うべき滝山城主北条氏照が栗橋城を接収し、以後、関宿城攻略のための拠点となり、「栗橋衆」という城番衆に栗橋城を守備させ、野田氏もその中にあったという。現在残る遺構は、この氏照の持ち城時代に整備拡張されたと考えられる。最終的には1590年に北条氏が滅亡すると廃城になったようだ。

 実はこの城に来るのは2回目であるが、前回は場所がはっきりわからず、ほんの一部しか遺構を見ることができなかったので再訪した。栗橋城は、権現堂川を天然の水堀としてその東岸に築かれた城で、かつては本丸の周囲に幾つもの曲輪を連ね、その間を幾重にも横矢の掛かった堀で分断した規模の大きな城であった。しかし近代に入って権現堂川を拡張した際に城の西側主要部は失われ、現在では民家の建つ外曲輪周囲や法宣寺境内裏に、城の東側一部の遺構を残しているに過ぎない。しかし、そのわずか一部の遺構が予想以上に良好に残っており、直角にクランクする深さ3m程の堀跡が見事に残っている。堀に沿って内側には土塁が構築され、櫓台も築かれていたようである。しかし如何せん夏場に全貌を確認するのは難しい。冬場にまたチャレンジしてもよいかも知れない。
外曲輪西側に一部残る堀跡→DSC06302.JPG
DSC11726.JPG←東側の堀跡

【2018年1月補足】
 10年ぶりに冬枯れの時期を狙って再訪した。屈曲した水堀、水堀に突き出した土塁上からの横矢掛かりなどが見られる。しかも堀も土塁もともに規模が大きい。やはり北条直轄の城だと普請レベルが並の城と異なると感嘆。
広い幅の堀→IMG_5393.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.109554/139.729335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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fuzzy

戦国武将ランキングの際、後北条が好きとありましたよね、関東の城巡りは後北条に纏わるものが多く、楽しいでしょう。北条と公方・管領の鬩ぎ合いは面白いですね、今ちょうど、海道龍一郎氏の「後北條龍虎伝」を読んでいます非常に面白いです。
by fuzzy (2009-12-13 14:43) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
北条は関八州の内、常陸の佐竹、安房の里見、それと下野北部の宇都宮、那須以外のほとんどを制圧していましたから、ときどきこんなところまで来ていたのかと思うぐらいです。「後北條龍虎伝」と言うのは面白そうですね。今度本屋さんで探してみます。
by アテンザ23Z (2009-12-13 21:32) 

fuzzy

「後北條龍虎伝」は06年に初版されました。文庫本も出版され09年1月に新潮文庫から刊行されています。メインは氏康と綱成です。
by fuzzy (2009-12-14 15:14) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
本屋さんで見つけたので買っちゃいました。
今、モンゴル帝国の本を呼んでいる途中なので、それを読み終わったら読もうと思っています。
いい本を紹介して頂きありがとうございます。
by アテンザ23Z (2009-12-23 21:49) 

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