SSブログ

戸倉城(東京都あきる野市) [古城めぐり(東京)]

DSC07372.JPG←北出曲輪の内枡形
 戸倉城は、小宮城とも言い、元々15世紀頃に武州南一揆の一員として秋川谷の領主であった小宮氏の居城であった。その後、小田原北条氏の勢威が武蔵を圧し、河越夜戦で山内・扇谷両上杉氏が没落すると、武蔵守護代の大石定久は北条氏に降り、1564年頃に北条氏康の次男氏照に滝山城と大石氏の名跡を譲って、定久は戸倉城に隠居したと伝えられている。ただ定久が晩年を送った場所は山上の城ではなく、山麓の光厳寺周辺であったと推定されている。北条氏時代の戸倉城は、甲斐武田氏の武蔵侵攻に対する押さえである檜原城との中継城の役割を持ったと考えられている。その後、1590年の北条氏滅亡と共に廃城となった。

 戸倉城は標高434m、比高200m程の峻険な城山山上に築かれている。城域の最も東に主郭を置き、その西に数段の段曲輪に続いて広めの二ノ郭を配置している。二ノ郭の北側下方には腰曲輪と水の手が置かれて城の入口となっている。二ノ郭から100m程西には西出曲輪が置かれその周囲には腰曲輪と竪堀・横堀が配置されている。一方、北東の大手道から登って来ると、武者走り状の細道が北尾根に繋がり、そこを辿ると北尾根上の平坦地に至る。各種縄張図には記載が無いが、これも遺構と考えられる。この北出曲輪の入口は窪地になっていて、内枡形になっている様だ。ここから尾根上を登っていくと、いくつかの平坦地と共に竪堀状の溝が残っている。この竪堀は城内通路兼用のものの様だが、もしかしたら遺構ではなく森林伐採か何かの時に作られた溝かもしれない。

 戸倉城は、網代城よりは普請がしっかりしていて城域もより広く、余程城らしい城ではあるが、北条氏の城としては小規模である。やはりこの城も網代城と同じく、北条氏が本格的な城塞として使用したのではなく、元々あった城をそのまま狼煙台ネットワークの繋ぎの城として転用したものなのだろう。そして檜原城-戸倉城-網代城-戸吹城と続くこの狼煙台ネットワークのラインは、緩やかな弧を描いて滝山城に通じているのである。この城も北条氏の巧妙な支城網を知る上で貴重である。
西出曲輪の竪堀→DSC07409.JPG
DSC07543.JPG←檜原城から見た戸倉城遠景

 尚、大石定久の隠居城との伝承であるが、由木城にも同様な伝承がある。どちらが正なのであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.725681/139.197882/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント