SSブログ

辛垣城(東京都青梅市) [古城めぐり(東京)]

DSC07808.JPG←北西尾根の堀切と土橋
 辛垣城は、平将門の裔を称して青梅地方に勢力を持っていた豪族三田氏の最後の居城である。三田氏は、室町時代に関東管領山内上杉氏の家臣となり、武蔵守護代大石氏と並ぶ奥多摩方面の雄族であった。特に山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱においては、三田弾正忠氏宗が勝沼城を本拠に、山内上杉顕定の股肱の臣として活躍した。その後、小田原北条氏の勢力が伸張し、1546年の河越夜戦で両上杉氏が没落すると、三田氏も一旦は北条氏康に降った。しかし山内上杉憲政が越後の長尾景虎を頼って落ち延び、関東管領職と上杉氏の名跡を景虎に譲ると、景虎改め上杉政虎(後の謙信)は北条討伐の為に連年の様に関東に侵攻し、時の当主三田綱秀は北条氏に背いて謙信方に付いて抵抗した。氏康は、謙信の度々の関東侵攻をいなしつつ巧みに関東に勢力を広げると、三田氏にも強い圧迫を加えていった。そこで綱秀は、平山城である勝沼城を捨てて、峻険な山城である辛垣城を築いて居城を移した。辛垣城に拠った綱秀は北条氏への抵抗を続けたが、1563年、北条氏康は滝山城主である子の氏照に命じて綱秀を攻撃させた。まだ25歳の若武者であった氏照は戦に秀で、辛垣城麓の軍畑で守る三田勢と激戦を展開し、その後三田方家臣の寝返りもあって辛垣城を陥とした。綱秀は辛垣城を脱出して岩槻城に落ち延びたが、同年10月その地で自害し、三田氏は滅亡した。

 辛垣城は、勝沼城に対して西城とも呼ばれる。麓の三田氏所縁の海禅寺の北西150m程の所から山側に道が伸びており、そこを辿れば名郷峠から辛垣城まで伸びる山中のハイキングコースに到達することができる。(但し、途中にいくつかの分岐があり、どちらに行けばいいのかややわかり辛い。)辛垣城は、非常に高低差の大きい縄張で、主郭と周囲の段曲輪とは20m以上の高低差がある。主郭は、近代に行われた石灰石の採掘で破壊され、虫歯の様に中央が大きくえぐれた地形となってしまっている。しかし主郭外周は残っているのでその規模が想像できるが、もし山頂部が全て一つの曲輪だったとすると、かなり大きな主郭であったようである。主郭から派生する尾根筋はいずれも傾斜がきつく、そのせいもあってか、堀切はあっても規模は小さく、尾根筋の遮断を強く意識するようなものではない。南西の尾根にはハイキングコースの脇に数段の曲輪が広がっているが、その先では重機を入れて森林伐採が行われていた。その為、遺構は現在でも一部破壊されているようである。この方面の曲輪にはわずかに石垣が見られ、これが日本城郭大系に載っている写真のものと考えられるが、遺構なのか後世の改変によるものか俄かには判断できない。南の尾根にも同様に何段かの曲輪が連なり、変則的にえぐれた虎口状の遺構も見られ、石積みもあるが、これも後世の改変の可能性を拭いきれない。

 以上の様な感じで、どこまでが遺構か判断に迷う城である。また名族三田氏の最後の城としてはやや見応えに欠けるが、それだけ三田氏が北条氏に追い詰められていたことを象徴しているのだろう。
遺構?の石垣→DSC07824.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.812088/139.220477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント