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義信城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2011.JPG←前面の放射状竪堀の一つ
 義信城は、歴史不詳の城である。城名の由来も不明であるが、義信というのは人名であるらしい。高遠氏の出自に木曽氏説があり、それによれば2代目が高遠太郎義信と言うので、高遠義信に関連した城との説もある。

 義信城は、標高1200m、比高200mの山稜上に築かれている。私は鳩吹城から西に山道を辿り(1/25000地形図に描かれている点線の山道)、途中から南東に逸れて降っていき、城の背後の尾根から訪城した。幅の狭い細尾根を降っていくと、竪堀や二重堀切が現れ、ここからが城域となる。二重堀切の先も細尾根だが、西側下方に腰曲輪が築かれている。この腰曲輪は薮で覆われているが、西辺に土塁が築かれ、幅広の横堀のような形となっている。細尾根の先には大堀切が穿たれ、その上に主郭がそびえている。この大堀切は鋭く、南西に竪堀となって落ちている。またこの竪堀の脇にも竪堀が落ち、二重竪堀となっている。主郭は背後に土塁を築いた曲輪で、前面には段差だけで区画された二ノ郭を伴っている。二ノ郭は細長い曲輪で、郭内が尾根に沿って緩く傾斜している。二ノ郭の南西から南東にかけて帯曲輪が築かれているが、ここに放射状竪堀が穿たれている。主郭までは薮が多いのだが、二ノ郭と放射状竪堀にはなぜか薮がなく、お陰でものすごく形がわかりやすい。この前面の放射状竪堀は密度が高いため、畝状竪堀のように見える。また竪堀の規模が大きく、形状がはっきりと分かる。
 以上が義信城の本体であるが、背後の尾根の先に広い窪地がある。井戸らしい跡や倉などが置かれたらしい平場が確認できる。後世の耕地化によるものとも考えられるが、もしこれも城郭遺構だとすると義信城の後方にあって、城兵の駐屯や軍需物資を貯蔵していた施設があった可能性も考えられる。またこの窪地の南西に突き出た尾根には、義信城上の城〔仮称〕がある。

 義信城は小さい城でありながら、竪堀・堀切など各パーツが充実しており、見応えがある。その遺構には大名系城郭にも通じるものがあり、武田氏勢力の介在の可能性もある。それにしては少し奥まった場所に築かれているなど、謎も多い。
背後の尾根の二重堀切→DSCN1976.JPG
DSCN2023.JPG←大堀切と主郭切岸
大堀切脇の二重竪堀→DSCN2024.JPG
DSCN2021.JPG←前面の放射状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.836803/137.879051/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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義信城上の城〔仮称〕(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1957.JPG←最後部の堀切
 義信城上の城〔仮称〕は、義信城へ行く途中で私がたまたま見つけた城である。鳩吹城に行った後、背後の尾根から南東に義信城のある尾根へと降っていく際に、右手に堀切っぽい地形があったので探索した結果、小規模だが城郭遺構と判断した。小規模な遺構から推測して、義信城の背後にあって、より高所から物見や烽火台として機能していたのではないかと考えられる。

 義信城上の城〔仮称〕は、義信城の北西250m程の位置にあり、南に向かって突き出た標高1260mの尾根に築かれている。3段程の小さな段曲輪群から成り、最後部とその手前と2本の堀切が穿たれている。小郭群の前面は絶壁となっており、南下方からの接近は困難である。
 尚、この小城砦の北東には広い窪地があり、井戸らしい跡や倉などが置かれたらしい平場が確認できる。後世の耕地化によるものとも考えられるが、もしこれも城郭遺構だとすると義信城の後方にあって、城兵の駐屯や軍需物資を貯蔵していた施設があった可能性も考えられる。義信城上の城は、この施設を防備する砦であった可能性もある。
段曲輪群→DSCN1966.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.838125/137.876830/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世山城
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鳩吹城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1932.JPG←主郭
 鳩吹城は、戦国前期の天文年間(1532~55年)に倉田将監安光が居城したと言われている。倉田氏は鎌倉の出であり、最初は横山に住み、木曽義康と余地原で戦って敗れ、北殿の倉田城に移り、福与城の藤沢氏に属したと伝えられる。また鳩吹城は、南北朝期に南朝方の北条時行が立て籠もって北朝方の信濃守護小笠原貞宗の軍勢と戦った、所在不明の大徳王寺城の候補地でもあるらしい。

 鳩吹城は、標高1320.4m、比高400m程の大田山山頂に築かれている。まともに下から登ったらなかなか大変な山だが、城跡の一部がパラグライダーの出発台となっているので、城近くまで未舗装の林道がある。この林道を使えば車で間近まで行けると思っていたが、訪城した3月下旬はまだ日影に残雪があり、途中で車が残雪にハマってスタックしてしまい、危うく脱出不能になるところだった!手で雪かきして何とか脱出できたので、ちょっと戻って多少スペースのある路肩に車を駐めて、そこから歩いて訪城した。山の西尾根の鞍部は削平されて駐車場になっており、ここから登道が付いている。登道は2つあり、普通の尾根道の他に幅広の道も斜面を削って上まで通されているので、一部遺構が損壊している。但し、概ねの遺構は残っている。西尾根に細尾根上の小郭と堀切があり、それを越えて登っていくと、明確な堀切が穿たれ、その上に主郭がある。主郭には城址標柱が立ち、曲輪は北に向かって傾斜し、先端に堀切が穿たれている。主郭の東方は山林がないので視界がひらけており、伊那盆地を一望できる。堀切の先に小郭がありその先にもう1本堀切がある。堀切はいずれも良好に残っているが、規模は小さい。また主郭の東西に腰曲輪があるが、東のものはパラグライダー台になって改変を受けている。西のものは一面の笹薮で、平場があるのがわかるだけである。鳩吹城は、高所に築かれた山城らしく、小規模で簡素な縄張りである。
主郭先端の堀切→DSCN1938.JPG
DSCN1921.JPG←主郭後部の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.839777/137.880392/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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安国寺門前古戦場(長野県茅野市) [その他の史跡巡り]

DSCN1896.JPG←安国寺の山門
 安国寺門前古戦場は、甲斐の武田信玄が高遠頼継を破った戦いである。1542年、信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで諏訪氏惣領の諏訪頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに信玄は頼重の遺言と称して頼重の遺児寅王を擁して出陣し、高遠勢を攻撃した。9月25日、安国寺門前の一帯で両軍の激戦があり、700余人の戦死者を出して高遠勢は大敗し、頼継は敗走したと言う。この結果、諏訪郡全域は武田氏の支配下となった。

 安国寺門前古戦場は、その名の通り安国寺の周辺で行われた。安国寺は、南北朝時代の小康時期の1345年、足利尊氏・直義兄弟が夢窓国師の勧めに従って元弘以来の戦乱による戦死者を弔うため、全国66ヶ国に造立した寺院である。信濃安国寺は、現在も茅野市宮川に残っている。門前を通る車道の脇の生垣に古戦場の解説板が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.989093/138.140802/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 星海社
  • 発売日: 2016/07/26
  • メディア: 新書


タグ:古戦場
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大熊城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1828.JPG←そびえ立つ丘上にある大熊城
 大熊城は、諏訪氏の庶流千野氏の居城と伝えられる。しかし千野氏の本貫地は宮川茅野であり、いつ頃誰がこの地に移ったのかは不明である。元々大熊の地は諏訪大社上社の西隣であるので、諏訪氏一族の有力者が大熊城を築き、後に千野氏がこの地に本拠を移したと考えられている。史料上の大熊城の初見は、1483年の諏訪氏の惣領家と大祝家との内訌の時である。1483年正月8日、大祝継満は惣領家の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺した。その詳細は干沢城の項に記載する。しかし大祝継満は諏訪氏の一家眷属の攻撃を受けて干沢城から高遠へ落ち、惣領を失った上社は不安定な日々を送ることとなった。3月19日、下社大祝の金刺遠江守興春は継満の味方を口実にして上社領を攻撃した。上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。この時の大熊城主は不明。次に歴史に現れるのは1542年の武田信玄の諏訪攻撃の時で、この時には大熊城に千野氏が居たことが知られる。信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで上原城の諏訪頼重を攻撃した。大熊城に立て籠もっていた千野入道兄弟は、攻め寄せてきた高遠頼継勢と武田勢の連合軍と戦い、敗れて落城した。諏訪頼重は桑原城に後退して立て籠もったが、間もなく降伏し、甲府に連行されて自刃させられた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏が頼重の遺児寅王を押し立てて頼重の遺言と称して反撃し、この時千野氏ら諏訪武士の多くが武田氏に味方した。1548年、上田原の戦いで武田氏が葛尾城主村上義清に敗北すると、諏訪郡の西方衆は武田氏に叛乱を起こしたが、鎮圧後に追放され、神氏系の反武田勢力は一掃された。この間、千野靭負尉(ゆきえのじょう)は信玄の信任を得、翌49年3月、有賀の地を与えられた。大熊城は、この頃破却されたと考えられている。

 大熊城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。この丘陵は、北面が急峻な斜面となっており、北の平地から見るとそびえ立つ丘の上に城がある。三日月形をした丘陵上の中心に主郭を置き、北西に2つの曲輪、南に3つの曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、更に外周に腰曲輪を廻らしている。しかし南の曲輪群に中央を中央道が貫通し、また車道も南北に貫通して、南の遺構は大きく破壊されている。それ以外の城内の曲輪は、いずれも畑となっていて改変を受けている。それでも主郭の切岸と周囲の空堀はよく残り、主郭後部の土塁も健在である。城址標柱と解説板もあり、辛うじて残っている部分だけでも末永く残していってもらいたい。
主郭切岸と空堀→DSCN1840.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.004630/138.104711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎(祥伝社新書)

信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎(祥伝社新書)

  • 作者: 関裕二
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2015/05/02
  • メディア: 新書


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有賀城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1692.JPG←北尾根の段状の曲輪群
 有賀城は、諏訪氏の庶流有賀氏の居城である。伝承では、承久年間(1219〜22年)に有賀四郎によって築かれたとされる。以後、有賀氏の歴代の居城となった。応永年間(1394~1428年)には有賀美濃入道性存・同豊後守泰時が居城したとされ、この二人の名は大塔合戦でも諏訪勢の中に現れる。戦国期の1542年に武田信玄が諏訪を攻略した後、有賀備前守昌武は武田氏に服属していたが、後に木曽義昌に通じて誅殺された。1548年、上田原の戦いで武田信玄が葛尾城主村上義清に敗北すると、諏訪郡の西方衆は武田氏に叛乱を起こしたが、鎮圧後に追放され、神氏系の反武田勢力は一掃された。叛乱鎮圧後、信玄は原美濃守虎胤を有賀城に置いて再度の叛乱に備えるとともに伊那口を守らせた。翌49年3月、有賀の地は千野靭負尉(ゆきえのじょう)に与えられた。1582年に武田氏が滅び、旧武田領を制圧した織田氏勢力も本能寺の変で崩壊すると、天正壬午の乱を経て、徳川領となった信濃の諸豪は徳川家康の麾下に属した。1590年の小田原の役後に徳川氏が関東に移封となると、諏訪氏一党も関東に移ってこの地を離れたが、1601年に諏訪頼水が諏訪に復帰すると、千野丹波守房清が有賀に戻った。

 有賀城は、諏訪盆地南方の丘陵地の一角、標高920m、比高100mの山上に築かれている。北東麓にある江音寺の北側から登山道が整備されている。ちなみにこの登山道の入口脇には、高島藩の家老となった千野家の墓所がある。また後で知ったが、山の東西にも登山道が整備されているらしい。だが江音寺北の登山道の方が、登りながら全ての遺構を廻ることができるので都合が良い。長方形の主郭を頂部に置き、北尾根に4つの方形の曲輪を段状に連ね、更にその前面に腰曲輪群を配置している。各曲輪はきれいに削平され、主郭・二ノ郭にはしっかりした土塁も築かれている。主郭背後の土塁の内側には石積みも見られるが、後世の構築である可能性がある。主郭と二ノ郭の間は堀切で分断されており、この堀切から左右に長い竪堀が落ちている。主郭の北東斜面には腰曲輪と堀切が穿たれ、この堀切から落ちる竪堀は、二ノ郭手前の堀切から落ちる竪堀に合流している。主郭の背後は、堀切と小郭を交互に連ね、三重の堀切となっている。中では主郭背後の堀切が深さもあり、切岸も鋭い。更にこの城では、主郭から北に連なる曲輪群の西側に、横堀による防御線が構築されている。この横堀からは数本の竪堀が落ち、一部は二重横堀となり、その他の部分も帯曲輪が築かれている。何てことない連郭式の城と思いきや、横堀・竪堀による側面防御が巧妙な縄張りとなっている。この横堀によって補強する手法から、武田氏統治時代の天正年間(1573~92年)頃の改修と宮坂氏は推測しているが、適切な評価であると思う。
主郭背後の大堀切→DSCN1780.JPG
DSCN1787.JPG←横堀・竪堀による側面防御

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.017093/138.080785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




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南真志野城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1584.JPG←3段から成る主郭
 南真志野城は、歴史不詳の城である。城主は矢嶋氏であったらしい。1542年の『守矢頼真書留』に、「桑(原より真志)野城へ矢嶋殿同心にて下宮をまはり・・・」とあるのが南真志野城のこととされるが、( )の部分は原文では欠落しているので、断定し難いとされる。1548年、上田原の戦いで武田信玄が葛尾城主村上義清に敗北すると、諏訪郡の西方衆は武田氏に叛乱を起こしたが、矢嶋氏もこれに加わり、鎮圧後に追放された。

 南真志野城は、諏訪盆地南方の丘陵地の一角、標高1030mの山上に築かれている。山中に未舗装の林道が通っており、それを使って北東尾根の中腹まで車で登り、そこから北東尾根を登っていけば城の中心部に至る。この尾根上には何段もの腰曲輪群が築かれているが少々笹薮が多くてわかりにくい部分もある。山上には明確な切岸で区画された曲輪群がそびえている。主郭は内部が3段に分かれ、北と南に低土塁を築いている。主郭の最上段は櫓台状で、後部に土塁を築いている。主郭背後は堀切が穿たれている。主郭の南には3段の腰曲輪、北から北東にかけては2段の腰曲輪が築かれている。特に北側上段の腰曲輪は幅が広くなっている。主郭の南西にも3段の腰曲輪が築かれ、主郭背後の堀切と繋がっている。堀切西側の背後の尾根には、尾根上に平場があり、南斜面に腰曲輪が2段築かれている。この他、腰曲輪などに数カ所石積みが見られるが、往時の遺構かどうかは判断し難い。南真志野城は遺構がよく残っているが、あまり技巧的な部分は見られず、素朴な形態の城である。
主郭背後の堀切→DSCN1620.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.005915/138.090119/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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大熊荒城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1520.JPG←主郭のL字状土塁
 大熊荒城は、1486年に諏訪氏の一族大祝継満が築いた城である。「荒城」とは「新城(あらじょう)」と同意である。これに先立つ1483年正月、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした継満は、諏訪氏惣領の政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺した。しかし諏訪氏の一家眷属に攻撃されて、立て籠もっていた干沢城から没落し、伊那高遠に落ち延びた。翌84年5月3日、小笠原政貞ら伊那諸豪の援助を得た継満は、杖突峠を越えて諏訪に侵入し、片山古城(武居城)を取り立てて干沢城の惣領勢と対峙したが、攻撃を受けて退去した。同年12月、先に継満に殺害された政満の2男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政一致に戻った諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。新たな大祝が立ち、存在感が薄くなった継満は1486年5~6月に再び諏訪に戻って大熊に新城を築いた。それが大熊荒城である。これは諏訪還住の意思表明と誰かの支援を期待してのこととの説がある。しかし結局同年9月に継満は没したと言う。

 大熊荒城は、標高1000m、比高230mの山上に築かれている。北麓から鉄塔保守の山道があり、これを登っていけばやがて城に至る。『信濃の山城と館』の縄張図によれば、堀切で区画された一の木戸、二の木戸があり、その先に石積みの残る三の木戸が築かれ、その先に城がある。しかし木戸の堀切は、薮のせいもあってあまりよくわからない。石積みもあるにはあるが、崩れているので実際に石積みだったのかどうかもはっきりしない。しかし主郭と前面の腰曲輪群は明瞭で、主郭にはL字型の土塁が残り、その背後には二ノ郭との間に堀切が穿たれている。二ノ郭から南に、更に2つの曲輪があるとされるが、塁線が不明瞭であまりはっきりしない。この城域の東側に前述の山道が通っているが、側方に土塁状の土盛りを伴っている。いずれにしても、『信濃の山城と館』で「逃亡の身でジリ貧になった継満が、諏訪還住のために密かに少人数で拠点となる場所を確保した城」「いかにも急ごしらえのもので、加工度も少なく、まことに簡単な造り」と記載している通りの、ささやかな城である。築城時期・築城者がはっきりしている稀有な中世城郭であるが、正直言って登山の苦労が報われない城である。
主郭背後の堀切→DSCN1517.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.995586/138.110676/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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武居城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1429.JPG←主郭前面の帯曲輪群
 武居城は、片山古城とも呼ばれ、諏訪氏が築いた古い城である。伝承では、鎌倉末期の1330年に諏訪五郎時重が鎌倉幕府最後の得宗北条高時の婿となり、信濃一円に勢力を拡大し、山裾の武居平に居を構え、山上に武居城を築いたとされる。時重は、1333年に新田義貞の鎌倉攻めで北条氏が滅亡した際、高時を介錯して自身も自害したと言う。しかし、諏訪時重と言う武士は史料上確認できない。太平記によれば、北条高時とともに鎌倉東勝寺で自害した武士として諏訪入道直性(宗経か?)の名がある。また得宗家の被官諏訪三郎盛高は、高時の子北条時行を保護して密かに信濃に落ち降り、諏訪一族の元に匿った。そして1335年、時行を奉じて挙兵したのが諏訪頼重らの信濃武士であった。この中先代の乱で、頼重らは一時は鎌倉を制圧したが、京都から攻め降った足利尊氏率いる軍勢に瞬く間に駆逐され、鎌倉で自刃したことが知られる。従って、建武新政期に史書に現れる諏訪一族の中に時重と言う武士は出て来ない。とは言え、得宗家被官の諏訪一族が諏訪大社上社本宮に近い武居城を築いた事実はあったのだろう。いずれにしてもその後の城主は知られず、城も放棄されていたらしい。1483年、諏訪大祝継満は、惣領家の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺し、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした。しかし諏訪氏の一家眷属に攻撃されて、立て籠もっていた干沢城から没落し、伊那高遠に落ち延びた。翌84年5月3日、小笠原政貞ら伊那諸豪の援助を得た継満は、杖突峠を越えて諏訪に侵入し、片山古城(武居城)を取り立てて干沢城の惣領勢と対峙したが、攻撃を受けて退去した。天文年間(1532~55年)には、諏訪頼重の家臣篠原与三郎が武居城代となった。しかし1542年に武田信玄が諏訪を攻略すると、武居城は落城した。その後は諏訪大祝が城を預かったが、1582年の天正壬午の乱の中で諏訪頼忠が諏訪を回復すると、高島城(茶臼山城)を本拠とした。以後、武居城は使われず、そのまま廃城となった。

 武居城は、諏訪盆地南方の丘陵地の一角、標高940m、比高170mの城の峯に築かれている。中腹には竹居平・保科畠と言う広大な平坦地があり、城主居館や家臣団屋敷があったとされる。武居城はその背後の山上にあり、主郭が武居城跡森林公園になっているので、車道の脇から登山道が整備されている。この登山道は「ショイビキ(背負い引き)道」と呼ばれ、近世には切り出した木を背負って下った道らしい。そのため深い竪堀状の道となっている。この道を登っていくと、途中で横堀が分岐している。この横堀は、城の北東斜面中腹を防御するように穿たれている。その上には段曲輪群が構築され、主郭に近づくと円弧状の長い帯曲輪群に変化する。最上部に主郭があるが、切岸だけで区画されており、土塁は残っていない。主郭の南北の斜面にも帯曲輪が数段築かれている。主郭背後の南西の尾根は一騎駆け状の土橋となっているが、堀切は見られない。『信濃の山城と館』では、ショイビキ道のために堀を埋めてしまった可能性を指摘している。いずれにしても、主郭以外は多段曲輪だけで構成された城で、縄張りにほとんど技巧性は見られない。戦国期には、ほとんど役目を終えていた城だったのだろう。
 尚、沢を挟んだ東の山上には支砦の天狗山砦があるが、これもただの平場群だけの城砦のようなのでパスした。
山腹の横堀→DSCN1399.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.992409/138.121190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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桑原城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1330.JPG←二ノ郭と主郭
 桑原城は、高鳥屋城とも呼ばれ、諏訪惣領家の本城上原城の支城である。諏訪氏の被官桑原氏の城であった。文献にその名が出てくるのは1483年の諏訪惣領家と大祝家の内訌の時である。即ち、1483年正月8日、大祝継満は惣領家の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺した。その詳細は干沢城の項に記載する。しかし大祝継満は諏訪氏の一家眷属の攻撃を受けて干沢城から高遠へ落ち、惣領を失った上社は不安定な日々を送ることとなった。その最中、神長官守矢満実は、3月10日に乱を避けて「高鳥屋城の上小屋(山上の砦)」に移り住んだ。3月19日になると、下社大祝の金刺興春は継満の味方を口実にして上社領を攻撃したが、上社勢は桑原氏らが高鳥屋城から討って出て、これを討ち破ったと言う。次に桑原城が現れるのは1542年の武田信玄による諏訪攻撃の時である。信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで上原城の諏訪頼重を攻撃した。頼重は攻撃を防ぎきれず桑原城に移ったが、間もなく降伏して甲府に連行され、切腹させられた。その後の桑原城の歴史は不明である。

 桑原城は、上川東方の標高980m、比高210m程の山上に築かれている。登道はいくつかあるようだが、私は大手と推測される南西尾根から登城した。この道は開敷院の裏にあり、山道がきれいに整備され、城址誘導板も設置されている。開敷院本堂からちょっと登った所にお堂があり、その裏に1段の平場がある。その先を更に登ると鉄塔のある尾根に至る。ここからが本格的な城域となる。鉄塔の後ろには中央に土塁が築かれた細長い曲輪があり、周囲に腰曲輪が築かれている。この先は大手の多段曲輪群が構築され、小堀切も穿たれている。城の中心部に近くなると、腰曲輪は大きさを増し、その上に西曲輪がある。ここからが城の中心部で、全体として鼓型の形状をしている。西曲輪の上に二ノ郭があり、二ノ郭の中央には浅い堀切が穿たれている。西曲輪はこの二ノ郭の周りをコの字型に取り巻いている。二ノ郭からは諏訪湖が一望できる。二ノ郭の背後には堀切が穿たれ、その先に主郭が置かれている。主郭は前面と後面に低土塁を築いている。主郭の東には東曲輪が築かれ、堀切南から腰曲輪を経由して繋がっている。東曲輪の北部には首塚とされる土壇があり、その裏に竪堀が穿たれている。東曲輪の東の尾根にも腰曲輪があり、その先を堀切で防御している。また東曲輪の南の尾根にも腰曲輪群が築かれている。腰曲輪群の先端近くに小堀切が穿たれ、更にその先には自然地形の丘があるが、周囲に帯曲輪群が構築されているので、ここも城域であった事がわかる。以上が桑原城の遺構で、上原城同様に中心部はコンパクトに纏められており、あくまで有事の際の詰城であったことがよく分かる。
南東尾根先端の曲輪と中央土塁→DSCN1293.JPG
DSCN1315.JPG←南西尾根上部の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.025683/138.140030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

長野県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


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上原城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1203.JPG←ひな段状の曲輪群
 上原城は、諏訪氏惣領家の居城であり、その後武田氏の軍事拠点となった城である。築城時期は明確ではないが、室町後期の1466年には諏訪惣領家当主信満が上原にいたことが古文書から知られる。これに先立つ1456年、惣領の安芸守信満とその弟で大祝の伊予守頼満との間で争いが起きた。古代以来諏訪氏では、幼少時に大祝として神に仕え、長じてからは惣領として武士団・政権を司る祭政一致の形態が取られていたが、中世の動乱の中で、神事の権威である大祝と、諏訪一門の棟梁である惣領という二重構造を強めた。1456年の対立後、惣領信満は上原に拠って宮川以東を領すると共に一門を率い、大祝頼満は前宮に残って宮川以西を領すると共に祭祀を司ったと言う。従って、この頃には上原には諏訪惣領家の居館が置かれ、城下集落が形成されていたと考えられ、詰城である上原城も程なく築かれたと推測される。以後、政満・頼満・頼隆・頼重と5代70余年にわたり諏訪地方をこの地で統治した。また1456年以後、惣領家と大祝家とは分裂状態となり、諏訪氏は祭政分離となった。大祝頼満の子継満は、1483年正月8日に信満の子で惣領の政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺し、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした。しかし諏訪氏の一家眷属はこれを支持せず、大祝継満は失脚し、84年12月、先に継満に殺害された政満の2男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政一致に戻った諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。頼満の子頼隆は若死にし、1539年に孫の頼重が跡を継いだ。頼重は甲斐の武田信虎と同盟し、その息女を正妻に迎え、連年出兵を繰り返した。そのため郡内は疲弊した。1541年に父信虎を追放した武田(晴信)信玄は、翌42年、諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで諏訪頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、諏訪一円は武田氏の支配下となった。その後、諏訪には信玄重臣の板垣信方が郡代として入り、上原城を大規模に改修した。信玄も着工間もない頃に上原城に来て、40日にわたって上原城などの普請を指揮し、諏訪統治の手配をした。以後、上原城とその館は、武田氏による諏訪統治の拠点と信濃攻略、また遠く美濃三河への中継基地として武田軍の重要拠点となった。特に武田軍の万に及ぶ大軍団が出陣・帰陣の際の中継基地として度々使用しており、それだけの兵団が滞在できるだけの機能がこの地に整備されていたことがわかる。1549年、統治所は高島城(茶臼山城)に移されたが、軍事基地としては機能し続けた。武田氏が上原城を使った最後は1582年2月で、武田勝頼は同年1月の木曽義昌の離反を受けて、諏訪郡代今福筑前守昌和らを木曽氏討伐に派遣し、自らも後詰として上原城に本陣を置いた。しかし間もなく始まった織田信長による武田征伐により、怒涛の如く侵攻した織田信忠率いる先鋒軍の前に伊那郡の武田勢は相次いで瓦解してしまった。また駿河でも江尻城を守っていた一族衆の重臣穴山梅雪が離反し、その報を受けた勝頼は2月27日、甲斐本国防衛のため新府城に撤退した。その後、伊那で最後まで残っていた高遠城を攻略した織田軍は諏訪に侵攻して諏訪上社を焼き払った。以後、上原城が使われた記録はなく、徳川・北条両軍が争った天正壬午の乱でも高島城が諏訪頼忠の拠点となっているので、上原城は織田軍による諏訪蹂躙後に廃城になったと推測される。

 上原城は、永明寺山の西斜面の末端の標高978.3m、比高200m程の小山に築かれている。中心に主郭を置き、周囲に輪郭式に曲輪を配した縄張りとなっている。主郭はほぼ方形の曲輪で、西以外の三方に低土塁を築いている。主郭背後には大堀切が穿たれている。南西下方に二ノ郭があるが、二ノ郭の先端部には大きな物見石という岩がある。更に二ノ郭下方には三ノ郭があり、ここには金比羅神社が建っている。三ノ郭の南に降る尾根が大手道で、中腹の板垣平と呼ばれる館跡(根小屋地区)に通じている。この尾根には小郭群が置かれ、堀切・竪堀も見られる。また二ノ郭・三ノ郭からは東と北に帯曲輪が伸び、北の帯曲輪の先には理昌院平と呼ばれる広めの腰曲輪がある。理昌院平の北西下方にも舌状の腰曲輪群が築かれ、北斜面まで曲輪が続いている。理昌院平の東端部は竪土塁が築かれていて、主郭背後の堀切から落ちる竪堀との間を区画している。理昌院平の北西下方の曲輪群の先には、石切場らしい場所があり、石積みや大穴地形がある。一方、主郭背後の大堀切の東には、はなれ山という出曲輪があり。その東も堀切で遮断している。また大堀切の南側に落ちる竪堀は二重竪堀となっている。その西側にも竪堀群が見られる。以上が上原城の砦部の構造で、高低差が大きく、曲輪の規模は小さいコンパクトな縄張りである。

 砦の南西の中腹には、前述の通り板垣平と呼ばれる館跡(根小屋地区)がある。広大な畑地となっており、その西側に家老屋敷と呼ばれる舌状曲輪が突き出ている。これらの周囲にも数段の腰曲輪が築かれている。

 戦国期に重要な軍事基地となった城であるが、砦部は意外なほどに小さくまとまっている。上野松山城でもそうであったが、大きな城というのは中継基地や前進基地としては以外に不便であったのかもしれない。
大堀切から落ちる竪堀→DSCN1221.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.009056/138.148656/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

いざ登る信濃の山城 絵地図で案内する戦国の舞台

  • 作者: 中嶋豊
  • 出版社/メーカー: 信濃毎日新聞社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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朝倉山城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1039.JPG←堀切と東郭
 朝倉山城は、塩沢城とも言い、武田氏の家臣塩沢氏の居城である。1542年の諏訪攻略後、大門峠の戦いで軍功のあった家臣塩沢安兵衛がこの城を築いて守ったと伝えられる。安兵衛の後はその子塩沢将監が引き続いて朝倉山城を守備した。

 朝倉山城は、標高1087m、比高140m程の山上に築かれている。東と南に登山道が整備され、案内板も出ているので迷うことなく登ることができる。城内は薮払いされているので、遺構は非常に見やすい。頂部に土塁で囲んだ円形の主郭を置き、その周囲に数段の腰曲輪を廻らし、北・南・東に曲輪群を配置した縄張りとなっている。北の尾根には2本の堀切と小郭を挟んで舌状の4郭がある。その先の尾根にも竪堀・堀切・片堀切が穿たれているが、いずれも規模は小さい。また主郭の南には、堀切を挟んで細長い二ノ郭がある。二ノ郭は中央に仕切り土塁が走り、その南に片堀切が穿たれて、南の三ノ郭との間を区画している。その先は浅い堀切3本で区画された小郭群が続いている。一方、東尾根には城内で最も大きな堀切が穿たれ、その先に東郭が置かれている。ここは展望台としてベンチが置かれ、木が切り払われており、眼前には八ヶ岳連峰の雄大な景観を望むことができる。東郭の先にも腰曲輪群が何段か築かれている。以上が朝倉山城の遺構で、多重堀切で防御すているが、主郭周り以外の堀切は浅くささやかなもので、防御性は限定的である。戦国期の武田氏の城にしてはあまり防御性が高くない縄張りで、もともと諏訪氏勢力が築いた城を、若干改修してそのまま使い続けただけだったのかもしれない。

 尚、城の南西にある塩沢寺に、塩沢将監の墓が残っている。
堀切で区画された曲輪群→DSCN1011.JPG
DSCN2794.JPG←塩沢将監の墓

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.039183/138.212214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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潮城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0906.JPG←わずかに残った主郭の土塁跡
 潮城は、歴史不詳の城である。一説には、今川氏の重臣岡部氏の居城朝日山城の支城ではないかと言われている。また長篠合戦以降、駿河に侵攻した徳川氏が、田中城攻撃のために築いたとの説も提示されている。

 潮城は、潮山の東の山裾にある段丘上に築かれていたが、現在は国道1号藤枝バイパスの建設により城の中心部は大きく破壊されている。しかし、主郭北西側の土塁・塁線と、西の二ノ郭との間に穿たれた堀切跡が残っている。二ノ郭は畑となっているが、方形の土壇を置いた形状は残っている。しかし現在でも国道の拡幅工事が行われているようで、わずかに残った主郭の遺構も近々破壊してしまうかもしれない。
堀切跡→DSCN0910.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.896606/138.275814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城館の実像 (城館研究叢書)

中世城館の実像 (城館研究叢書)

  • 作者: 均, 中井
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2020/12/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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朝比奈城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0847.JPG←3郭~4郭間の堀切
 朝比奈城は、高天神衆に属した曽根孫太夫長一の城である。城山の北麓に居館があったとされ、その詰城であった。長一は、高天神城主小笠原長忠(信興)の寄子で、武田勝頼が高天神城を攻略した第一次高天神城合戦の際には、本丸の守備に付いた。高天神城が開城すると、長一は徳川方に逃れ、徳川氏家臣の大須賀康高に仕えたと伝えられる。

 朝比奈城は、朝比奈川南岸の標高90m、比高70mの山稜上に築かれている。牧之原台地の支脈の一つから北西に突き出た尾根に位置している。登り口がよくわからなかったので、私は北に派生した支尾根の先端からアプローチした。尾根を辿っていくと、やがて主尾根に築かれた二ノ郭に至る。二ノ郭は、以前は畑になっていたらしく一部改変されているのではっきりしないが、北に虎口があり、後部に土塁らしき土盛りが見られる。二ノ郭の北には腰曲輪、北西には堀切と小郭、南西の尾根には段曲輪群が築かれている。二ノ郭から西に登っていくと、最上部に築かれた主郭に至る。主郭は円形の小さな曲輪である。主郭背後に当たる南東の尾根には、腰曲輪を介して堀切が穿たれている。この堀切の先には3郭・4郭が置かれ、それぞれ堀切で分断されている。この尾根には、主郭背後・3郭~4郭間、4郭先端と3本の堀切が穿たれているが、いずれも中規模の堀切でしっかり普請されている。4郭の後部には土壇があり、堀切に繋がる城道はこの土壇の脇をすり抜けるように敷設されている。また3郭・4郭の南斜面にのみ、腰曲輪が置かれている。各堀切はこの腰曲輪に向かって落ちている。4郭の背後の尾根の先にはわずかな堀切と土橋が見られ、搦手筋を防御している。以上が朝比奈城の遺構で、基本的には細尾根城郭だが、主郭・二ノ郭は幅のある平場であり、小屋掛けぐらいは置かれていた可能性がある。
主郭背後の堀切→DSCN0838.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.660508/138.147701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 静岡編

東海の名城を歩く 静岡編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/07/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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殿ノ山城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0756.JPG←クランクする堀切
 殿ノ山城は、歴史不詳の城である。城周辺には、「おかたやしき」「遍照寺」「おおみどう」「りょうもん」等の古地名が残り、「おかたやしき」からは13世紀後半のものとみられる四耳壺が、また「遍照寺」からは室町時代の宝篋印塔の相輪2点が出土している。このことから、当時この地を治めていた比木氏の館がこの根古屋にあり、館の防衛を殿ノ山城が担い、更に詰城として比木城が築かれていたと推測されている。

 殿ノ山城は、比高20m程の小さな低丘陵先端部に築かれている。西を通る車道を少し北に登った所に、擁壁を登る階段が付いており、その先の小道を登れば城域北端の堀切に至る(この小道は堀切脇にある墓地に通じている)。北端の堀切は浅く小規模であるが、西側でクランクしており、横矢を掛けている。堀切には土橋が架かり、主郭の虎口に繋がっている。主郭は南北に細長い高台となっている。主郭の西から南にかけて、二ノ郭が広がっている。二ノ郭の南にも腰曲輪があるが、薮が酷い。腰曲輪の南端には小堀切と前面の土壇がある。遺構としてはそれだけで、地勢・縄張り共にあまり防御性が高いとも思えない、小規模で簡素な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.657313/138.170886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海から行く! 御城印めぐり (ぴあ MOOK 中部)

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  • 出版社/メーカー: ぴあ
  • 発売日: 2020/08/17
  • メディア: ムック


タグ:中世平山城
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比木城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0722.JPG←南東尾根の堀切
 比木城は、歴史不詳の城である。鎌倉期に比木弾正という武士が築いたとの伝承があるらしいが、詳細は不明。比木氏の詰城を、東遠江を制圧した武田氏が改築したとの説もある様だ。

 比木城は、比高70m程の舌状台地に築かれている。ここは比木城山と呼ばれ、主郭は全面茶畑に、二ノ郭は民家の敷地となっていて、これらには明確な遺構は見られないが、主郭の南東尾根・南西尾根に遺構が残っている。主郭である茶畑の西側に降っていく小道があり、これを降っていくと主郭南西尾根に築かれた小規模な腰曲輪と堀切がある。また茶畑の南東角から薮を降ると、主郭の南斜面に竪堀が2本落ちている。その脇の南東尾根には腰曲輪があり、その下方には堀切が穿たれている。堀切の前面は物見らしい土壇となっている。堀切の東側を降ると腰曲輪に繋がっており、その東にも腰曲輪や堀切が残っている。一方、南東尾根の堀切・土壇の先は細尾根となり、一旦降ってからまた登りになり、その先に東西に長い峰上の平場がある。平坦ではあるがほとんど自然地形で、外周の塁線もはっきりせず、遺構ではないようだ。この他、主郭の東側に一段低い平場があり、腰曲輪であったと思われる。以上が比木城の遺構で、主要部が改変により遺構が失われているせいもあって、あまりパッとしない城だった。
南斜面の竪堀→DSCN0693.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.661726/138.171337/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2015/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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相良館(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0670.JPG←標柱が立つ館跡
 相良館は、この地を本貫地とした相良氏の居館である。相良氏は、藤原為憲の流れを汲む遠江守維兼を祖とする一族で、1112年に工藤周頼が相良庄に入部し、相良氏を称した。以後、8代長頼までの80余年間の本拠となった。1198年に長頼は幕府より九州下向を命じられ、肥後国球磨郡人吉荘を領して、人吉城を居城とし、鎮西の御家人となった。その後、相良氏は九州の戦国大名となり、しぶとく生き延びて江戸時代にも肥後人吉藩2万2千百石の大名として幕末まで存続した。即ち相良館は、近世大名相良家の発祥の地である。

 相良館は、荻間川東岸の平地に築かれていたらしい。現在は民家近くのただの空き地で、明確な遺構は残っていない。館跡を示す標柱が、その歴史を伝えているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.690101/138.199317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史散歩

静岡県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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滝堺古城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0632.JPG←先端の主郭
 滝堺古城は、室町中期に勝間田城主勝間田氏によって築かれた出城と伝えられる。その後、1476年に遠江攻略を目指す駿河守護今川義忠に攻められて廃城になったと言う。後に今川氏を駆逐してこの地を支配した甲斐の武田信玄は、滝堺古城が手狭であるため、新たに新城(滝堺城)を築いた。

 滝堺古城は、眼下に太平洋を望む比高60m程の丘陵上に築かれている。牧之原台地の南東端の一角に当たる。西の台地上は一面の茶畑になっており、茶畑の奥の薮を突っ切ると、細尾根を下っていく小道がある。この小道は一旦鞍部まで降り、その先は再び登りとなる。尾根を登りきった先に細長い平場が広がっており、そこが主郭となる。主郭はただの平場で、きれいに削平はされているが、塁線ははっきりせず、周囲にも明確な切岸はない。主郭の先端近くに、倒れた城址碑がある。以前は解説板もあったらしいが、現在は失われている。主郭先端から北と南東に尾根が下っているが、小郭などの明確な遺構は特に見られない。前述の尾根の鞍部は、はっきりしないが堀切だった可能性がある。結局、明確なのは主郭だけである。西の茶畑が二ノ郭だったとの情報もあるが、現状からでは判断できない。いずれにしても、海上監視を主任務とした物見的な城だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.705467/138.210347/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城の政治戦略 (角川選書)

城の政治戦略 (角川選書)

  • 作者: 大石 泰史
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2020/12/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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大熊備前守屋敷(静岡県吉田町) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0621.JPG←屋敷跡の茶畑
 大熊備前守屋敷は、小川城城代となった武田氏の家臣大熊備前守長秀の城代屋敷である。武田信玄は1571年2月、徳川家康の部将松平左近真乗が守っていた山崎の砦を攻略し、馬場美濃守信房に命じてこれを修築して、新たに小山城を築いた。そして信玄は、越後上杉氏から亡命した客将大熊備前守朝秀の子長秀を足軽大将とし、小山城城代とした。長秀は、騎馬30・足軽75人で小山城を守備し、その後陣として相木市兵衛昌朝率いる80騎が置かれたと言う。長秀は、以後1572年暮頃までの約1年半を、この地で過ごした。

 大熊備前守屋敷は、小川城のある台地の地続きにある。台地の北端にあり、現在屋敷跡の北半分は削られて工場敷地となり、南半分は茶畑となって変貌している。「東は深い沢で空堀や土塁の跡も見られる」と解説板にあるが、薮でどこのことかよくわからなかった。結局台地の上にあるという以外、明確な遺構はない。それでも史跡に指定され、標柱・解説板が立っている。
 尚、近くを通る県道230号線のトンネルは備前守隧道と言い、武将の名がトンネル名になっている珍しい例である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.776791/138.240988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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家康御陣場(静岡県吉田町) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0619.JPG←陣場跡の八幡神社
 家康御陣場は、徳川家康が武田勢の拠点城郭小川城を攻略するため、本陣を置いた場所である。1573年の武田信玄の死後、遠江で武田勢に押されていた家康は、同盟する織田信長と共に反転攻勢に転じた。1575年の長篠合戦で武田勝頼が織田徳川連合軍に大敗を喫すると、徳川勢の遠江での攻勢は一段と強まり、一旦は勝頼に奪われた遠江の要衝高天神城奪還のため、武田方の補給路を断つ作戦に出た。徳川方は、激戦の末に攻略した諏訪原城を前進基地とし、高天神城への補給線の重要な中継拠点となっていた小山城攻撃のため、1578年3月と同年8月の二度にわたり、家康は大井川の八幡の森に陣を敷いたと言う。

 家康御陣場は、小山城の北方約1.5kmの位置にある大幡の八幡神社の地に置かれた。現在町史跡に指定されており、入口の鳥居の近くに解説板が立っている。遺構はなく、普通の神社の境内である。大井川にほど近く、国道にも近いので大井川の渡河点を押さえていたのだろう。田中城など、駿河方面からの武田勢の後詰を警戒した選地であったことがうかがわれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.792158/138.248112/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 静岡編

東海の名城を歩く 静岡編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/07/20
  • メディア: 単行本


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葛谷城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0614.JPG←城址碑と信玄供養塔
 葛谷城は、戦国時代の駿河今川氏と甲斐武田氏との抗争期に築かれた境目の城である。今川氏親・氏輝親子が武田信虎と争った1515~35年頃に今川氏によって構築され、武田信玄が駿河に侵攻して今川氏真を駆逐した1568年以降に、武田氏によって規模が拡大され、再構築された城と推測されている。葛谷峠狼煙場跡として町の史跡に指定されていたが、平成2年の全面発掘調査の後、民間会社による土石採取で城は消滅した。

 葛谷城は、前述の通り、既に地上から消滅してしまっている。発掘調査の結果、伝承されてきた単なる狼煙場ではなく、土塁で囲まれた頂部の2郭を中心に横堀・竪堀・腰曲輪を備えた、かなり技巧的な縄張りの城であることが判明したと言う。現在は、国道469号線沿いの県境に近い空き地に、葛谷城旧跡の碑・武田信玄供養塔(元は葛谷城主郭にあったもの)が基壇の上に並べられて整備されているだけである。しかし周囲は草茫々である上、空き地の周りは鉄条網で囲われている。せっかく整備したものなのに、なんで鉄条網で囲っているのか、不思議でならない。そもそも文化財を残すために史跡に指定したはずなのに、みすみす破壊を許す結果となったとは、何のために史跡に指定したのかと疑問に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所: https://maps.gsi.go.jp/#16/35.229259/138.529851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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福士の城山城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0576.JPG←広大な腰曲輪
 福士の城山城は、歴史不詳の城である。この地は穴山氏の支配下にあり、城山城西麓の西恩寺には穴山梅雪(信君)の遺児勝千代の墓もある。従って、穴山氏に関連した城砦である可能性はかなり濃厚で、福士の代官は佐野日向守友重かその一族と考えられていて、佐野氏が管理する烽火台であったと推測されている。
 尚、福士郷佐野氏は、同家の系図によれば下野国佐野の出身で、1440年の結城合戦後に甲斐守護武田信守に属して甲斐に移住したと伝えられる。本拠地を河内谷の光子沢に置き、戦国時代には武田氏の親族衆穴山氏の家臣になったと言う。佐野友光は光子沢を本拠とし、1534年に穴山信友から将監の官途を受け、佐野将監と名乗った。友光の弟淡路守光綱は、福士郷矢嶋に本拠を置いた。佐野友重は、友光の子で、穴山氏の奉行衆を務めた。

 福士の城山城は、福士川曲流部に突き出た、標高158m、比高40m程の丘陵上に築かれている。主郭には金刀比羅宮が建っているので、参道が整備されている。社殿があるのが主郭で、社殿背後に土塁が見られる。主郭の南東の鳥居のある平場が二ノ郭である。ここから南東の尾根筋には、片堀切や切通し状の堀切が残っている。また主郭の北西下方には、広大な腰曲輪が広がっており、その北西角には堀切が穿たれ、前面に小郭が置かれている。またこの腰曲輪の北にも更に舌状の腰曲輪があり、その周りに数段の帯曲輪が確認できる。以上が福士の城山城で、神社建設による改変があるものの、概ねの遺構は残っているようである。
北西角の堀切→DSCN0582.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.234114/138.471916/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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真篠城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0533.JPG←見事な畝状阻塞
 真篠城は、天文~永禄年間(1532~70年)に武田信玄の命により構築され、その家臣原大隅守(虎吉)が警護したと伝えられている。後には真篠勇太夫という武士の居所になったと言う。

 真篠城は、富士川西岸の標高259m、比高140m程の丘陵上に築かれている。なだらかな山容で、丘陵南東の中腹まで集落が広がっており、県指定史跡になっているため東中腹に駐車場も整備されており、苦労なく訪城できる(但し、駐車場の場所はわかりにくい)。この城は、甲斐の中世城郭の中でもベスト5に入る、屈指の縄張りを持っている。城の中心にある主郭は、外周を土塁で囲み、東西に見事な枡形虎口を築いている。北面の虎口だけは普通の坂虎口で、北側の腰曲輪に通じている。主郭の外周には腰曲輪が築かれ、東の枡形虎口は、主郭の南に広がる二ノ郭に通じている。二ノ郭の東西には土塁が築かれ、特に西のものは主郭土塁から繋がっている。また主郭の東斜面と北西斜面にも数段の腰曲輪が築かれている。北東には谷地形を利用した大きな竪堀があり、その脇の尾根に曲輪を築いている。竪堀の下は北東尾根の最下段の曲輪に繋がっている。主郭の北斜面の下に北尾根の遺構があり、付け根に小堀切が穿たれ、その先に細尾根の曲輪が続いている。北西の広い腰曲輪の先には細長い舌状の三ノ郭が突き出すように築かれ、土橋の架かった堀切で先端を穿ち、その先に台形状の馬出し郭を置いている。これほど明確な馬出し形状は、なかなかお目にかかれない。中田正光氏の縄張図では、三ノ郭の北斜面に畝状竪堀があるとしているが、私にはわからなかった。また主郭の西尾根下方には段曲輪があり、その先を堀切で分断し、堀切前面に物見状の土壇を築いている。一方、主城部から南に外れた峰に、この城の出色の遺構が残っている。それは類例の少ない畝状阻塞(畝状横堀)で、峰上の平場内を南北に貫通して穿たれている。これを畝状竪堀とする資料もあるが、形態からすれば竪堀ではなく横堀で、畝状阻塞(畝状横堀)とする方が正しい。同様の例は上野松井田城や信濃葛山城に見られる。真篠城のものは、平場上から南斜面に向かって堀を落としており、南側に対する防御を意識していることがわかる。この他、城から南東にやや離れた仲間地区にも連続畝堀があるらしいが、時間切れで未踏査である。枡形虎口や畝状阻塞など、必見の城である。
馬出しと土橋→DSCN0422.JPG
DSCN0485.JPG←主郭東の枡形虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.257000/138.472044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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南部城山城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0340.JPG←堀切に架かる2本土橋
 南部城山城は、単に南部城とも呼ばれ、この地を本貫地とした南部氏の詰城であったと考えられている。しかし南部氏は、1392年に波木井(南部)政光が奥州八戸に移住してこの地を離れ、その後は甲斐武田氏の一族穴山氏がこの地に入り、下山に本拠を移すまで南部を本拠として活躍した。現在残る遺構からは、穴山氏支配時代に改修を受けたものと推測されている。

 南部城山城は、南部市街地の西にある標高230m、比高90m程の丘陵上に築かれている。T字型になった尾根上に曲輪群が展開している。南の車道脇から登道があり、以前は南部城山ふるさと公園となっていたらしく、今でも薮の中に一応小道が残っている。丘陵の主尾根は北西に向かって一直線に伸びており、ここに外郭に相当する遺構が残っている。最高所となる標高320mの峰に築かれた長円形の曲輪を中心に、幾重にも腰曲輪が築かれている。北西に向かう尾根筋には細尾根上の曲輪が続き、途中には一騎駆け状の土橋、更にその先に堀切に架かった土橋があり、北西端の峰に至る。北西端の峰は古城山と呼ばれ、砦があったらしく、頂部の平場を中心に腰曲輪が見られるが、あまり遺構は明瞭ではない。一方、これらの主尾根の曲輪群から途中で北に分岐した支尾根には、城の中心部がある。支尾根の付け根には平坦な広い曲輪があり、居住区とされている。この曲輪の先に堀切があるが、両側に土橋が2本架かっている。この2本土橋は非常に珍しい遺構で、以前に丹波地方の東掛城高城城で見たことがあるが、東国では見た記憶があまりない。その先にもう一つ曲輪が続き、その先端を斜めに穿たれた堀切が分断している。この斜め堀切の北に腰曲輪群が数段築かれ、最高所に主郭がある。主郭には土塁と櫓台が築かれている。主郭の北に2郭があり、その下方には堀切で区画された小郭があり、両側に竪堀が落ちている。特に左手の竪堀は大きく、腰曲輪群を貫通して下方まで落ちている。主郭の西斜面には数段の腰曲輪が築かれている。北の鞍部に配水池が建設されて改変を受けているが、その北に高台があり、烽火台とされている。烽火台の北にも腰曲輪と細く突き出た曲輪が置かれて城域が終わっている。
 以上が南部城山城の遺構で、主郭周辺の堀切や曲輪群はしっかり普請されているが、虎口や動線には技巧性はなく、平易である。遺構を見た限りでは、武田氏勢力の城というより、駿河今川氏の城の雰囲気を感じた。戦国期に何度も今川氏の軍勢がこの地域から甲斐に侵攻しているので、今川勢が中継基地として整備した城だったのかもしれない。
北端の烽火台→DSCN0301.JPG
DSCN0279.JPG←竪堀と腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.290232/138.451488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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遠藤伊勢守屋敷(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0087.JPG←遠藤塚が残る屋敷地
 遠藤伊勢守屋敷は、甲斐武田氏の家臣遠藤伊勢守正綱・尾張守正則父子の居館である。遠藤氏父子は、1560年に信州での合戦で討死したと言う。

 遠藤伊勢守屋敷は、大城集落にある。渓流沿いの高台であり、屋敷跡と推測される場所は宅地や畑となっている。遠藤氏にまつわる3つの塚(鎧塚・刀塚・膳塚)が民家の近くに残っており、塚の標識もある。それ以外に明確な遺構は見られない。また集落最上部にある妙覚寺の墓地に、遠藤父子の墓と供養碑が残っている。
遠藤父子の墓と供養碑→DSCN0091.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.337192/138.398123/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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波木井氏館(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0059.JPG←主郭
 波木井氏館は、波木井南部氏館とも言い、甲斐源氏南部氏の庶流波木井氏の居館である。その事績は波木井城の項に記載する。波木井氏の祖、南部光行の3男六郎実長がこの地に屋敷を構えたとされる。1393年、8代政光の時に同族を頼って陸奥国八戸に移住するまで、波木井氏はこの地に居住したと言う。尚、その後も波木井城に残った一族もいたが、1527年に武田信虎に滅ぼされた。

 波木井氏館は、波木井川に面した梅平集落南側の比高40m程の山裾にある。丘上が平坦な高台となっていて、そこが館跡と伝えられている。北麓の墓地裏からと、近くの鏡円坊の脇からと2つの登道がある。方形の主郭があり、その北や西にいくつかの腰曲輪が見られる。主郭背後には土塁状の土壇があるが、一部崩れていてしまっているようである。背後に切通し状の小道があり、北側斜面に竪堀が落ちている。背後の東側丘陵地にも平坦地が広がっている。この他、大きな谷で南側側方を遮断している。以上が波木井氏館であるが、昭和58, 59年に行われた発掘調査では館跡と特定できるものは発見されなかったらしく、今後の考究が待たれるところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.366297/138.428357/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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本城山(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0016.JPG←垂直絶壁型の堀切
 本城山は、大島氏屋敷とも言い、『甲斐国志』によれば本城時頼という武士の居城とされる。しかし本城氏についても、大島氏についても、その事績は不明であり、烽火台との伝承もある。一方、主郭内の墓地に残る五輪塔は依田大炊頭長利という武士のものとされ、現地の石碑によれば上杉禅秀の乱の首謀者上杉禅秀(氏憲)が1417年に滅亡すると、依田氏も自刃したとされる。尚、この碑には本城山を龍剣山砦としている。

 本城山は、富士川東岸の大島集落の裏山にある。標高255mの山上で、主郭は現在墓地となっている。そのため西麓の大島集落から墓地への登道があるので、迷うことなく登ることができる。主郭にはL字型に土塁が残り、その裏に小平場があり、その西を堀切で分断している。堀切は、上総でよく見られる垂直絶壁型で、この地域では珍しい形である。その下方には数段の段曲輪が見られるが、その先は中部横断自動車道が尾根を貫通して破壊されている。小規模な城砦であるが、今では失われた歴史を秘めているようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.320299/138.455865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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本宿楯(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9906.JPG←主郭内部の段差
 本宿楯(本宿館)は、横田城とも言い、昆野右馬之允(または日野右馬允)が城主であったと言われる。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では、葛西氏の家臣・気仙金野氏の一系統に属する武士であったと推測している。また金野氏の祖とされる金氏は、鎌倉期には横田本宿楯を本拠としていたと言われる。一方、葛西大崎一揆に関する伝承では、桃生郡中津山香取(神取山城)に立て籠もった1700余騎の中に気仙郡横田城主横田佐渡守常冬の名が見える。葛西氏の歴史については不明点や史料上の食い違いや混乱が多いので、どの伝承が正しいのか不明である。

 本宿楯は、気仙川東岸の標高70m、比高60m程の丘陵上に築かれている。東西2つの曲輪群があり、西の二ノ郭には熊野神社があるので、参道が整備されている。頂部に三角形の主郭を置き、東に帯曲輪を廻らし、更にその外周に腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。主郭の内部は2段の平場に分かれている。また南西の腰曲輪には内枡形虎口があり、横に竪土塁が築かれて土塁が2つ並列した虎口となっている。これら主郭群の西に細長く突き出すように二ノ郭があり、二ノ郭の西側下方に更に平場が広がっている。ここは一部が畑地となっているが、脇に土塁や空堀のような地形が見られる。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図によれば、二ノ郭群と主郭群との間には堀切があるとされるが、現状では確認できない。以前は山全体が耕地化されていたらしく、改変されている可能性があるが、概ねの遺構は残っていると思われる。縄張りにはあまり技巧性はなく、比較的古い形態のまま戦国末期まで使われた城だったようである。尚、この城も2月の北東北なにのマダニが出るので、要注意である。
神社が建つ二ノ郭→DSCN9891.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.056409/141.596432/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)

続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2017/12/29
  • メディア: 単行本


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浜田城(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9854.JPG←主郭とされる松峰神社背後の高台
 浜田城は、大和田掃部の居城と伝えられる。大和田掃部は、高田城米ヶ崎城を居城とした浜田安房守広綱の重臣で、米ヶ崎城二ノ郭に主君浜田広綱とともに墓が建てられている。また大和田氏は広田高館の城主であったとも伝えられ、2つの城主を兼帯したものか、或いは広綱が居城を高田城から米ヶ崎城に移した際に、配置換えが行われたものだろう。浜田氏が主家葛西氏に対して反乱を起こし、鎮圧されて没落した後、1590年秋には大和田氏は葛西晴信の元に勤番していたらしい。しかし豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となり、その後葛西大崎一揆が起きると、佐沼城に立て籠もって討死したと言う。

 浜田城は、米ヶ崎城の北北西950mの丘陵上に築かれている。なだらかな丘陵地で、ほとんどの部分が宅地や畑に変貌しており、そのため遺構は余り明瞭ではない。松峰神社の背後の高台が主郭とされるが、ほとんど自然地形である。主郭の尾根続きの東や北東にも丘陵上に平場はあるようだが、民家があるので踏査できず詳細は不明である。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では、これらの平場間に堀切があるとされるが、遠目にははっきりした堀跡は確認できない。唯一、主郭の南の車道が堀跡らしい形状を留めているだけである。この堀の南の丘陵地も城の一郭であったようだが、平場の段はあるものの、ここも宅地化で大きく改変されているのではっきりしない。結局、ほとんど明確な城の痕跡を見出すことはできず、かなり残念な状況である。尚、いわてデジタルマップの文化財地図では浜田城のある丘陵は城跡と認知されていない。本当に城跡だったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.009205/141.655161/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

日本100名城と続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき (歴史群像シリーズ)

  • 作者: 公益財団法人日本城郭協会
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: ムック


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高田西館(岩手県陸前高田市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9849.JPG←館跡の現況
 高田西館は、いわてデジタルマップの文化財地図では単に西館と記載され、歴史不詳の城館である。すぐ東の丘陵上には高田城があり、高田城は東館城とも呼ばれることから、西館に対する東館であり、西館は高田城と密接な関係があったことがうかがわれる。おそらく高田城の城主の平時の居館が置かれたか、城主の身内の館が置かれたのではないだろうか。

 高田西館は、高田第一中学校のある丘陵のすぐ南の平地にあったらしい。遺構は何もなく、現在は東日本大震災の傷跡を残した空き地が広がっているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ても、住宅地で囲まれた水田が広がっているだけなので、早くに遺構が失われたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.018875/141.625979/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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