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樫ノ木城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6649.JPG←扇状曲輪群中央の大切岸
 樫ノ木城は、上杉謙信が飛騨方面に対する軍事拠点としていたと伝えられる。部将の村田与十郎(大炊介)を置いたと言われ、そのため村田城とも呼ばれたらしい。1570年の謙信書状からは、飛騨の三木良頼に軍役として樫ノ木城を守らせていたことがわかる。また附之城(津毛城)は、三木良頼の部将で戸川(栂尾)城主塩屋筑前守秋貞が樫ノ木城を攻撃した際に出城として築いたとも伝えられる。いずれにしても謙信は、越中南部の城を飛騨武将に守らせて飛越国境を固めていたものと思われる。

 樫ノ木城は、樫ノ木集落南の標高330mの山上に築かれている。東麓の小道の脇から西の薮に分け入る登り道があり(目印があまりないのでわかりにくいが、赤テープが垂れている)、これを登っていけば城域に至る。城は山頂に主郭を置き、その西下方に内枡形を備えた二ノ郭、その北側下方に扇状に広がる曲輪群を展開した縄張りとなっている。主郭・二ノ郭はいずれも小規模な曲輪で、砦レベルのものである。中腹の扇状曲輪群は、大切岸と空堀によって上下2つの区域に分かれている。上の区画は更に上下2段の平場に分かれ、上段曲輪は中央に坂虎口を築き、西端の土塁は坂土橋となって二ノ郭に接続する曲輪群に繋がっている。下段曲輪も中央に虎口を設け、虎口脇には土塁を築き、土塁はそのまま東に伸びている。下段曲輪の西端部には張出し部分があって、その左右に竪堀が落ちている。張出し部の後ろには坂土橋があって上段曲輪に通じている。下段曲輪の前面は大切岸となり、その前面には浅い空堀が穿たれている。この障壁構造は大道城によく似ている。扇状曲輪群の下の区画は以前は畑地であったため、どこまで往時の遺構を留めているのかよくわからないが、緩斜面に幾重もの段が築かれている。北西端には二重堀切が穿たれ、横の竪堀と繋がっているが。この二重堀切は山形県に多い中間阻塞型の堀切で、この地方では珍しい。北東端は大手虎口があったらしく、土塁や竪堀が見られる。この他、主郭の後部の峰の先には小堀切が穿たれ、更にその南の峰の先にも堀切がある。以上が樫ノ木城の遺構であるが、全体的に薮が多く遺構が見づらい。遺構としても、扇状曲輪群を分割する中央の空堀・切岸以外は、やや取り留めのない縄張りと感じた。
扇状曲輪群の土橋・虎口→DSCN6652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573466/137.289619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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