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牟礼砦(東京都三鷹市) [古城めぐり(東京)]

DSC03429.JPG←主郭に残る旗かけの松
 牟礼砦は、小田原北条氏2代氏綱の家臣北条治部少輔綱種(本氏高橋将監種政)が、扇谷上杉氏の深大寺城に対して、弟高橋氏高の築いた烏山砦と共に築いた砦である。高橋氏は、伊豆の雲見上の山城を本拠とし、伊勢宗瑞(北条早雲)以来の重臣であった。1524年、氏綱は扇谷上杉朝興の江戸城を攻略し、武蔵に重要な橋頭堡を得た。扇谷上杉氏は河越城まで後退したが、1537年、上杉朝定は亡父朝興の遺志を継いで江戸城の奪還を企図し、老臣難波田弾正を深大寺城に出陣させた。北条綱種は氏綱の命により江戸城を進発し、難波田弾正の籠もる深大寺城に対峙して、その北東4kmの地点に牟礼砦を築いた。おそらく難波田氏の江戸城への進出を食い止め、来るべき河越城攻略戦を有利に展開する為であったろう。この砦の構築が功を奏し、氏綱率いる本軍はまっすぐ河越城を攻め、同年7月15日、これを陥とした。上杉朝定は家臣上田氏の拠る松山城に敗走し、一方、河越城の失陥によって深大寺城の戦略的意味はなくなり、おのずから深大寺城周辺も北条氏の支配下となったと思われる。

 牟礼砦の地には、現在神明社が置かれている。社伝に拠れば、河越城攻略後の11月15日に北条綱種が陣内鎮護の為に、芝の飯倉神明宮の御心霊を勧進して当地に祀ったものだと言う。おそらくは、深大寺城から上杉方の勢力が一掃されて砦が不要となったので、戦没した将兵の霊を慰めたものであろうか。神明社周辺は完全に市街化しており、かつての遺構は全く残っていない。しかし神明社の置かれた地は、周囲より10m程の急崖で囲まれた高台となっており、砦の選地として申し分ない。境内内部は1m程の高低差で2段に分かれており、もしかしたら主郭と二ノ郭であったかも知れない。社殿の裏には旗かけの松と呼ばれる神木が立ち、その由来が書かれた石碑が建っている。それに拠れば、綱種が深大寺城に対峙した際、旗を掲げて本陣を誇示した松の古木であったと言う。小さな社地で遺構もないが、猛将北条綱種の遺蹟が残っており、その解説もしっかり書かれているので、非常に嬉しい。北条ファンならば必見の地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆(城郭遺構としての評価)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.688289/139.583917/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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☆はな

玉川上水を散歩したついでに 横目で見るところです^^。
見る場所によっては 砦らしくみえるのです (‐^▽^‐) 。
by ☆はな (2010-10-26 22:17) 

アテンザ23Z

>☆はなさん
なるほど!玉川上水越しに見ると、高台に立つ砦に見えるんですね。気づきませんでした。
仕方ないので、GoogleMapの3Dで雰囲気だけ味わいます・・・。
by アテンザ23Z (2010-10-30 03:27) 

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