喜多見屋敷(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]
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喜多見屋敷は、江戸氏の末裔である喜多見氏3代の陣屋跡である。鎌倉時代初期に江戸太郎重長の次男武重が木田見の姓を名乗り、木田見郷に居館を築いて江戸防衛の第一線としていた様である。江戸氏は南北朝期の1368年、平一揆の乱に敗れて没落し、更に室町中期には太田道灌によって江戸を追われ、上杉氏の勢力を避けて木田見に移住したと考えられる。戦国時代に入り、天文の頃から喜多見江戸氏は世田谷城主吉良氏の重臣となって活躍したが、1590年に小田原北条氏が滅亡すると、姓を喜多見氏と改めた喜多見勝忠は、徳川家康に仕えてその旗本となった。重恒を経て重政の代には、側用人に登用されて2万石の大名となったが、1689年に改易となり、陣屋は廃された。
喜多見屋敷は現在、慶元寺となっており、境内には喜多見古墳群が残っている。往時にはおそらく物見として利用したものであろうか。それ以外には遺構らしいものはない。また、江戸太郎重長の銅像が建ち、江戸氏歴代の墓も残っている。江戸氏の所縁を伝える寺である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.627146/139.594538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
喜多見屋敷は、江戸氏の末裔である喜多見氏3代の陣屋跡である。鎌倉時代初期に江戸太郎重長の次男武重が木田見の姓を名乗り、木田見郷に居館を築いて江戸防衛の第一線としていた様である。江戸氏は南北朝期の1368年、平一揆の乱に敗れて没落し、更に室町中期には太田道灌によって江戸を追われ、上杉氏の勢力を避けて木田見に移住したと考えられる。戦国時代に入り、天文の頃から喜多見江戸氏は世田谷城主吉良氏の重臣となって活躍したが、1590年に小田原北条氏が滅亡すると、姓を喜多見氏と改めた喜多見勝忠は、徳川家康に仕えてその旗本となった。重恒を経て重政の代には、側用人に登用されて2万石の大名となったが、1689年に改易となり、陣屋は廃された。
喜多見屋敷は現在、慶元寺となっており、境内には喜多見古墳群が残っている。往時にはおそらく物見として利用したものであろうか。それ以外には遺構らしいものはない。また、江戸太郎重長の銅像が建ち、江戸氏歴代の墓も残っている。江戸氏の所縁を伝える寺である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.627146/139.594538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:陣屋
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