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鵜ヶ崎城(宮城県岩沼市) [古城めぐり(宮城)]

DSC05461.JPG←堀跡らしき道路
 鵜ヶ崎城は、別名を岩沼要害とも言い、江戸時代に仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一である。古くは武隈館と呼ばれ、伝承では953年頃に源重之によって築城されたと言われている。この城が歴史上にはっきりと姿を現すのは、ずっと後の戦国後期のことである。即ちこの地域が伊達氏の勢力下に入り、泉田安芸重光が鵜ヶ崎城主となった時からである。重光は、大難戦となった1588年の大崎合戦の将の一人で、最上義光に捕らわれたものの伊達氏に忠節を尽くし、解放されるまで最上方に降ることがなかったと言う。江戸時代に入ってからは幾多の城主の変遷を経たが、1682年以降は幕末まで古内氏が城主を勤めた。仙台城白石城の中間にあるため、戊辰戦争時にも利用され、敗戦後も仙台藩の武器が鵜ヶ崎城に隠されるという事件まで発生した。鵜ヶ崎城は明治2年に明治政府に召し上げられ、その後解体された。

 鵜ヶ崎城は、江戸時代の絵図と昭和20年代の航空写真(国土変遷アーカイブ)とを照合すると、ちょうど本丸付近をJR東北本線の線路が貫通している様である。そのため遺構は壊滅状態で、城跡は岩沼駅や住宅地に変貌しており、往時の姿は見る影もない。かつては比高10m程の台地上に築かれていて、周囲を沼地を利用した堀で区画防御した城だったようである。現在では台地は削り取られ、堀は埋められてほとんどその痕跡も明確ではない。しかしそれでも良く見ると、堀跡や曲輪の切岸らしい地形が住宅地や幼稚園の脇に散見される。鵜ヶ崎城の標柱は、岩沼駅北西の高台上の鵜ヶ崎公園にあるが、古絵図と照合すると、ここはどうも城外に当たるようである。もしかしたら城外の物見台だったのかも知れない。また駅の東側200m程の所に流れる水路は丸沼掘と呼ばれ、往時の鵜ヶ崎城の外郭の堀跡と思われる。いずれにしても壊滅的な破壊を受けてしまった残念な城である。
外堀と思われる丸沼掘→DSC05492.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.113726,140.862&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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