斎藤氏屋敷(東京都大田区) [古城めぐり(東京)]
←妙安寺に残る妙安尼供養塔
斎藤氏屋敷は、戦国後期の永禄年間(1558~70年)に小田原北条氏の家臣であった斎藤政賢の居館である。その事跡は定かではないが、政賢の妹で地頭行方修理亮義安の後室であった円光院妙安尼が、夫の戦死後に兄政賢の屋敷の中に庵室を結んだと伝わっている。妙安尼は1589年に没し、その後この庵室が妙安寺となったと言う。従って現在は、妙安尼が開基となった妙安寺の境内となっている。隣にある蒲田八幡神社も館域であったと思われる。場所が京急蒲田の駅近くであるので、当然ながら市街化で遺構は完全に湮滅し、居館らしさを思わせるものは皆無である。尚、妙安寺の奥左手に、妙安尼供養塔である宝篋印塔が残る。この宝篋印塔は奥側が欠損しているので、関東大震災の時にでも倒壊して破損したのだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.560518/139.722791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
斎藤氏屋敷は、戦国後期の永禄年間(1558~70年)に小田原北条氏の家臣であった斎藤政賢の居館である。その事跡は定かではないが、政賢の妹で地頭行方修理亮義安の後室であった円光院妙安尼が、夫の戦死後に兄政賢の屋敷の中に庵室を結んだと伝わっている。妙安尼は1589年に没し、その後この庵室が妙安寺となったと言う。従って現在は、妙安尼が開基となった妙安寺の境内となっている。隣にある蒲田八幡神社も館域であったと思われる。場所が京急蒲田の駅近くであるので、当然ながら市街化で遺構は完全に湮滅し、居館らしさを思わせるものは皆無である。尚、妙安寺の奥左手に、妙安尼供養塔である宝篋印塔が残る。この宝篋印塔は奥側が欠損しているので、関東大震災の時にでも倒壊して破損したのだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.560518/139.722791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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