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砂久保陣場(埼玉県川越市) [その他の史跡巡り]

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 砂久保陣場は、史上有名な三大夜戦の一つ、河越夜戦の際の陣場である。現在の砂久保稲荷神社の地が陣場に比定されている。以下は現地解説板の記述の概略。

「1545年、北条氏康が駿河の今川義元と相駿国境で対峙していた隙を突いて、扇谷上杉朝定は関東管領山内上杉憲政・古河公方足利晴氏と連合し、数万の大軍で北条氏に奪われた河越城を包囲した。氏康は河越城の死守を優先して今川氏と和睦を結んで駿河から兵を引き揚げ、翌年、足利晴氏に城兵の助命嘆願をしたが拒否された。しかし、扇谷上杉氏の重臣で岩槻城主太田全鑑を味方に引き入れると、氏康は1546年4月17日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に着陣した。ここで再度足利晴氏に城兵の助命嘆願をしたが取次ぎを拒否され、4月20日になると上杉憲政が氏康の砂窪陣所に攻めかかってきたと言う。氏康は劣勢を跳ね除けてこれを迎撃し、河越城に籠城していた北条綱成も城内から撃って出て、両方面で北条方が勝利した。一般には河越夜戦と言われ、8万とも言われる大軍を1/10の兵で撃破した奇襲戦とされるが、兵数は後世の誇張であり、実際には奇襲戦ではなく迎撃戦だったらしい。」

 この解説は、どうもかなり最近建てられたものの様で、ネット上で紹介されている以前の解説では砂久保陣場は上杉憲政の陣所であったと書かれていた様である。また河越夜戦の経緯も、初めて眼にする内容のもので、一般に流布している説とは大いに異なっている。どの様な根拠から迎撃戦という説になったのかは定かではないが、この合戦を境に武蔵の諸豪が一斉に北条氏になびいたことを考えると、もう少し劇的な勝利であったような気がする。私としては、やはり劇的な氏康の勝利を信じたい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.884730/139.485759/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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