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朝日山城(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

DSC02658.JPG←西地区の段曲輪群
(2010年12月訪城)
 朝日山城は、庄内平野を押さえる東部の出羽山地西端に築かれた山城である。位置的には砂越城観音寺城を結ぶ中間地点にある。源義家が東征の折に朝日山八幡宮を勧進し、城もその時築かれたと言うが確証はない。城主の池田氏は、建武年間(1334~38年)に陸奥守として東北に下向した北畠顕家に属し、南朝方として活動したようで、その頃に朝日山城を築いたとも言われている。朝日山城が歴史上はっきりと姿を表すのは戦国時代に入ってからで、天文年間(1532~55年)に朝日山城で出生した池田讃岐守は、120貫の土地を領し、50騎一備えの大将として尾浦城主の武藤(大宝寺)義氏に仕えていた。1583年に山形城主最上氏の後援を受けた前森蔵人(後の東禅寺筑前守義長)が義氏を攻め滅ぼした時も、池田氏は義氏に味方した。しかし義氏が自害すると、その弟義興に反抗して城地を没収され、一時古川に蟄居となった。その後庄内は最上義光の支配下に入ったが、1588年、越後上杉氏の家臣本庄繁長が庄内に侵攻して庄内争奪戦が始まった。上杉勢は十五里ヶ原の合戦で最上勢を破って庄内を制圧すると、最上氏の家臣、東海林兄弟は朝日山城に拠り、山楯・砂越両氏と共に川北方面の攻略を企図したが、かえって上杉勢に朝日山城を攻められ、東海林氏は最上領に敗走し、池田讃岐守は上杉方に降伏して所領安堵された。1590年に上杉氏が検地を行うと、庄内中の土民が蜂起して大一揆となったが、池田氏はこれに助力し、朝日山城は一揆の拠点となった。しかし同年12月に朝日山城を奇襲され、最上領の真室川の城(鮭延城か)へ落ちたと言う。1600年に池田氏は再び最上から帰って一揆を起こして籠城した。この時、酒田城代の志田修理に敗れたが、関ヶ原合戦後の論功行賞で庄内は最上領となり、池田氏は義光の重臣志村伊豆守に属して100石を与えられたと言う。その後、朝日山城は、元和の一国一城令で廃城になったと思われる。

 朝日山城は、比高100m程の山に築かれている。南は矢流川に面した急崖となった要害である。城は大きく3つのブロックに分けられ、主郭を中心とする西地区、標高132mをピークとする東地区、そして八幡宮のある八幡宮地区からなる。主郭のある西地区と詰に当たる東地区は、多くの段曲輪で構成される。両地区の間は大きな空堀で区画されるが、これは空堀というより広い窪地に作られた曲輪である。東地区も背後を堀切で分断しており、北側斜面に多くの段曲輪を備えている。両地区の段曲輪群には、一部に石積みの跡や土塁・虎口跡が散見されるものの、だらだらと曲輪が続くだけであまりメリハリが無い縄張りである。八幡宮地区には、八幡宮のある平場の北側の尾根上にも段曲輪があり、小さな堀切も備えている。頂部には物見らしい平場があり、西地区とは堀切で区画されている。朝日山城は、城域は広いが堀切もあまり大きくはなく、全体にパッとしない印象である。しかし、戦国時代の庄内攻防の歴史を留める貴重な遺構である。
主郭背後の空堀状の曲輪→DSC02673.JPG
DSC02723.JPG←虎口状の遺構

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.928334/139.942163/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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