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深沢城(静岡県御殿場市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05042.JPG←綺麗に残る三日月堀
 深沢城は、小田原北条氏と甲斐武田氏の激戦の地である。城の起源ははっきりしないが、駿河の戦国大名今川氏が築いたと言われている。駿河の今川義元・甲斐の武田信玄・相模の北条氏康は、甲相駿三国同盟を結んでいたが、桶狭間で今川義元が討死して今川氏が弱体化すると、1568年、武田信玄は同盟を破棄して駿河に侵攻した。北条氏康は娘婿に当たる今川氏真を保護し、信玄と交戦状態となった。その主戦場となったのが、甲相駿国境に近い深沢城であった。今川氏滅亡後、北条氏が深沢城を占拠し、地黄八幡で勇名を馳せた北条綱成と松田憲秀が守将となっていた。1570年11月、武田勢が深沢城を包囲し、金山衆(坑夫集団)を使って城を掘り崩すなどして攻め立てた。その最中の翌年1月3日、信玄は史上有名な「深沢城矢文」を城中に送って開城を迫った。綱成はこれを退けて籠城を続けたが、遂に開城して本拠の玉縄城に引き退いた。開城後、深沢城には武田方の将兵が入ったが、北条方はすぐに深沢城の奪還を試みて失敗し、その後は武田氏の支配下となった。深沢城には重臣の駒井右京之進昌直が入って、駿河における支城として前進拠点の役割を果たした。1582年に武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、昌直は城を焼いて退去し、以後は徳川家康の支配下となった。1584年の小牧・長久手の戦いの際には、家康は、三宅惣左衛門尉康貞を深沢城に入れて北条への押さえとしたが、1590年に北条氏が滅亡すると廃城となった。

 深沢城は、馬伏川と抜川の二つの川の合流点に突き出した台地上に築かれている。先端に本丸を置き、その南西側に二ノ丸・三ノ丸を連ねている。曲輪間は空堀で分断され、各々の繋ぎには馬出しが設けられて、曲輪の防御を高めている。城の構造は、戦国末期にこの城を占領していた武田氏の特徴がよく見られると言われ、特に三ノ丸の西側に残る三日月堀が見事で、武田流の丸馬出がよく残っている稀有な例である。本丸は畑となり、三ノ丸は一部民家が建つものの、周囲の堀や土塁はほとんど完存に近く、遺構はよく残っている。尚、現地解説板にある「二鶴様式」という用語の意味がよくわからない。縄張りの形式を指す用語の様だが、御存知の方がいたら御教示を乞う。それほど要害性は感じさせず、広大な城というわけではないが、主要街道を押さえる境目の城として重視されたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.324282/138.956269/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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