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河村新城(神奈川県山北町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC05096.JPG←馬場の様な広い曲輪と土塁
 河村新城は、新荘城・新城とも呼ばれ、小田原北条氏が甲駿国境に築いた重要な出城である。特に甲斐武田氏の侵攻に備えた城と考えられ、度々争奪戦が繰り広げられ、1569年の武田信玄の小田原攻めの際に湯ノ沢城足柄城等9城と共に落城したほか、1581年にも武田勝頼の攻撃に遭っている。1590年の小田原の役の際には、北条氏の江戸城代で重臣の遠山左衛門尉景政が守備していたが、徳川家康配下の甲州勢に攻められ、雑兵31人が討ち取られて落城し、そのまま廃城になったと言う。

 河村新城は、周囲を河内川や鮎沢川が削った深い谷で囲まれた比高180m程の城山山頂に築かれている。山の上近くまで車道が延びており、訪城はし易い。主郭・ニノ郭・蔵郭等の城の中枢部は山頂の東側斜面にあったようだが、現在は一面の茶畑が広がり、改変が進んでいて遺構は確認できない。山頂は平坦な削平地となっていて、櫓台と考えられるそうで、わずかに石積み跡が見られる。櫓台内部は藪だらけで冬場でも確認が難しい。櫓台東側の道路はおそらく堀切跡であろう。山頂の櫓台から西側には緩斜面が広がり3段程の削平地になっているようだがはっきりしない。更にその先は畑となっている。畑の手前を北西側に降りていくと、緩斜面の先の断崖上に外周を土塁が築かれた曲輪が扇状に広がっている。一部の資料では大空堀跡とされるが、現状を見る限り帯曲輪と考えた方が合っている様に思う。その上には数段の馬蹄形段曲輪も存在するので、馬場の様な広い曲輪だったと思われる。この外周の土塁の外にも、一部土塁らしい跡が残っている。外周の土塁は、一番西側で斜面を登るように竪土塁状に構築されている。ここには一部に物見台らしい跡も残っている。争奪戦が繰り広げられた城にしては、後世の改変によって遺構がはっきりしない部分が多く、やや残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.375964/139.025749/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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