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足柄城(静岡県小山町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC05289.JPG←空堀と二ノ郭
 足柄城は、小田原北条氏の相駿国境の警衛の城である。足柄峠を含む足柄古道を城域に取り込む形で構築され、古来より戦略上の要地であった。その創築は定かではなく、平安末期の平将門の時代から陣が構えられたことが推定され、また南北朝期の竹之下合戦前夜に足利尊氏が足柄明神を陣所とした際、何らかの陣城が構築された可能性もある。また「新編相模国風土記稿」では足柄城を「大森信濃守氏頼城跡」と記しており、大森氏が築城したことが考えられるが、どの程度の規模のものであったかは不明である。足柄城がはっきりとその姿を現わすのは小田原北条氏の治世下で、1555年に北条氏康が足柄城普請に関する文書を出しており、おそらく天文年間(1532~55年)には甲斐・駿河に対する国境防衛の城として築かれていたと推測される。1568年、武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が崩壊し、駿河深沢城で北条氏と武田氏が攻防を繰り広げると、後詰めとなる足柄城は1569~71年にかけて改修された。1582年の武田勝頼滅亡の頃の足柄城主は、北条氏政の弟氏忠で、最も血の繋がりの濃い一門衆が城将となっていることからも、足柄城の重要性がわかる。またこの頃には、足柄城の南北に連なる尾根上に、丹土尾砦・阿弥陀尾砦・古楢尾砦・通り尾砦・猪鼻砦などの周辺支砦群が構築され、足柄古道を防衛する重厚な防衛線を敷いていた。織田信長の横死後、豊臣秀吉が信長の後継者として覇権を確立すると、全国統一を目指す秀吉と北条氏の間には政治的・軍事的緊張が生じ、1587年から秀吉来攻に備えて再度大規模な改修が行われた。小田原の役直前の1590年3月、足柄城守将の北条氏忠(唐沢山城主)は、足軽100名のほか鉄砲・弓・鑓隊を率いて着任したが、4月1日に要衝の山中城が陥落すると、小田原籠城の方針によって氏忠は小田原城に退却し、依田大膳亮が守備していたが、徳川家康の先手井伊直政の一隊によって攻撃され、10数名とも26名とも言われる雑兵を討たれ、大膳亮は退却し、足柄城は呆気無く落城した。

 足柄城は、足柄峠を主郭背後の堀切とし、その北に曲輪を連ねている。基本的に堀切で各曲輪を分断しているが、富士山の宝永大噴火の火山灰によって埋もれたのか、堀切はかなり浅くなり、遺構はそれほど明確ではない。足柄古道の最高所に位置する足柄城主郭・ニノ郭からの眺望は最高で、晴れていれば富士山の勇姿が眺められる。主郭も二ノ郭も内部は起伏があり、一部は土塁であることが明瞭であるが、公園化に伴うものかどうかよく分からない部分もある。四ノ郭には井戸跡が残り、わずかに石積みの跡も散見される。五ノ郭の北側には大きな堀切があり、ここで敵勢を遮断する構想だったようである。この他にも南郭や出丸の明神郭があるほか、北側にも外郭があったらしく土塁・空堀・竪堀などの遺構が確認できる。全体を発掘すればかなり構えの大きな城だったと思われるが、現在地表に現れている遺構からはあまり強い印象は受けないのが残念である。

 尚、足柄城の城域は、静岡県小山町から神奈川県南足柄市まで跨っているが、当ブログでは周辺支砦群との関係から、城の主要部が属する静岡の城ではなく神奈川の城として分類した。
わずかに残る石積み→DSC05211.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.320168/139.011823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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