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榎下城(神奈川県横浜市緑区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC00486.JPG←大手虎口の食違い土塁
 榎下城は、室町時代中期に上杉憲清が築いた城である。憲清は、足利家の姻族として南北朝期に台頭した上杉四家の一、詫間上杉氏の庶流で、足利尊氏の叔父(母の兄)に当たる上杉憲房の5男、右京亮重兼の子である。憲清は掃部助・武蔵国司であったと言われ、鎌倉公方の重臣であった。憲清の子憲直は、1438年に生起した永享の乱で、鎌倉公方足利持氏に従って一方の大将となって戦ったが、幕府の派遣した討伐軍に早川尻で破れ、持氏の出家した金沢称名寺を守っていたところを、関東管領上杉憲実の将長尾忠政に攻められて、子の憲家や一色直兼と共に自刃した。この時榎下城は一旦廃城となった様だが、戦国時代に入ると小田原北条氏の家臣山田右京進の居城として取り立てられた様である。しかし山田右京進の事績は不明で、従って戦国期の榎下城の歴史も不明である。

 榎下城は、現在城地の大部分が旧城寺の境内となっている。恩田川南岸に南から張り出した舌状台地の先端に築かれており、周囲を眺望できる地であった。周囲は市街化で改変されているが、城の遺構はよく残っている。旧城寺の寺堂のある場所が南郭で、その北側に一段高く主郭がある。現在主郭は墓地となっている。主郭と南郭の周囲には土塁が部分的に良好に残り、特に南郭南側の大手虎口を守る食違いの土塁や主郭南西部の隅櫓台は見事である。この隅櫓台には、「山田右京之進城跡」と刻まれた石碑が建っている。主郭西側には腰曲輪が残り、この規模の城には珍しく井戸跡が明瞭に残っている。また、主郭北側は的場と呼ばれ、北郭に相当するが、現在は民家の敷地となっており、立入ることはできない。城地の東西は、市街化で改変された今でも一段低くなっており、空堀跡であることが明瞭である。小規模ではあるが、都市化の波の中で奇跡的に遺構がよく残った城である。
隅櫓台に建つ石碑→DSC00502.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.517924/139.530133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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