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長尾砦(神奈川県横浜市栄区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC03618.JPG←南部遺構の空堀と土塁
 長尾砦は、日本城郭大系では「長尾台の塁」と呼ばれ、後の戦国時代に名将上杉謙信(長尾景虎)を輩出した長尾氏の発祥の地である。長尾氏は、八幡太郎源義家に従って後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の子孫がこの地に住んで長尾次郎と名乗ったのに始まると伝えられている。平安末期の1180年、石橋山で挙兵した源頼朝を平家方の大庭景親の大軍が討伐し、頼朝を守って俣野五郎景久と組討をしていた岡崎義実の嫡子佐奈田与一義忠を、長尾定景兄弟が討ち取ったことが源平盛衰記に見られる。頼朝が再起して鎌倉に入ると、長尾氏もこれに従って御家人に名を連ねた。後に1247年の宝治合戦で三浦氏側に付いたため、敗れて鎌倉長尾氏の嫡統は絶えたが、庶家が生き残った。1333年、足利尊氏が倒幕に成功し、その後幾多の変遷を経て将軍となって室町幕府を開くと、足利氏の姻族で重臣であった上杉氏に仕えていた長尾氏も大きく勢力を伸ばすこととなった。上杉氏は幾つかの系譜に別れ、各家で関東管領や越後守護を世襲したが、長尾氏も各家に従って白井長尾氏、総社長尾氏、足利長尾氏などを輩出した。この内、越後守護上杉氏に仕えた越後長尾氏は越後守護代となり、長尾為景の代に至って守護を傀儡化し、下克上で越後の実権を握った。その次男が長尾景虎、即ち後の上杉謙信である。一方、長尾砦は、戦国時代には小田原北条氏によって玉縄城の出城として利用されたと思われる。しかし戦国期の砦の歴史は不明である。

 長尾砦は、長尾台と呼ばれる柏尾川西岸の広い段丘上に築かれている。城域は、砦と言うにはかなり広く、台地全体を城域に取り込んだ感じである。北端は長尾台御霊神社付近から始まっており、神社南側の竹林の中に数段の腰曲輪が確認できる。また南端は、南の峰と呼ばれる高台に至り、ここには明確な切岸を伴った数段の曲輪があり、北西端には土塁と空堀を伴っている。この南部遺構は冬でも深い薮に埋もれており、全てを確認するのは困難であるが、城郭遺構があることははっきりと知ることができる。またこの高台から一面の畑となった台地の平坦面の間が、箱堀状の広い窪地になっており、「鎌倉市史」ではこれを大空堀としている。北部の遺構と南部の遺構の間はなだらかな丘陵状の台地で、一面の畑となり、一部に塚が築かれている。台地全体を取り込んだかなり広い城域はこの種の城砦としては極めて特異で、日本城郭大系では「限定された戦闘のフィールドを備えた要害」と推察しており、確かにそういう感じの縄張りである。それとも兵站の中継拠点として活用されたものだろうか。今後広い範囲で発掘調査をしてくれれば、縄張りの謎も解けるかも知れない。現地解説板は、御霊神社とその50mほど南の下り坂の2ヶ所に、それぞれ「長尾氏居館跡」、「長尾砦跡」の名で建てられている。
北部遺構の腰曲輪→DSC01823.JPG
DSC03607.JPG←大空堀跡とされる窪地
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【長尾台御霊神社付近の腰曲輪】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.362176/139.526550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【南の峰部の曲輪群】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.359744/139.523653/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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