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太田和城(神奈川県横須賀市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02442.JPG←矢城山の遠望
 太田和城は、三浦義明の3男大多和三郎義久が、平安末期または鎌倉時代初期に築城したと考えられている。三浦氏の本城衣笠城をめぐる馬蹄形連丘の南側を固める支城として、芦名城と共に機能したと考えられる。吾妻鏡に拠れば、大多和義久は鐙摺城主でもあったので、鐙摺城・芦名城から太田和城を経て衣笠城に至る、相模湾岸から衣笠城南方のルートを固める任を負っていたと推測される。その他、大多和氏の事績については、新田義貞の鎌倉攻めの際、太平記の分倍河原合戦の項に、大多和平六左衛門義勝が、一旦負け引いた義貞に献策したこと記されており、1247年の宝治合戦で三浦宗家が滅亡した後も大多和氏は存続していたと考えられる。尚、義勝は、足利氏譜代の重臣で代々その執事を務めた高氏から養子に入ったと伝えられている。
 太田和城も、芦名城と同様、矢城山と呼ばれるなだらかな丘陵上に築かれた城で、城跡には現在老人ホームがあり、遺構は完全に湮滅している。しかしその地勢は今でもよくわかる。老人ホーム入口には「伝 太田和城址」の石碑が建ち、山上の老人ホーム裏手にも解説板が建っている。こうゆうものがあるだけでもちょっと嬉しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.228163/139.636778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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おおたわ

大多和一族は、宝治合戦後房総へ逃れますが、その移住先の辺りには、現在でも一族と眷族が多数居住しています。
 史料にある「落ち延びた」と言われる場所と、自分の曾祖父の土地の場所(登記簿)が一致したのを見た時は、感慨深いものがありました
by おおたわ (2011-09-26 10:39) 

アテンザ23Z

>おおたわさん
ご一族でしたか!
歴史の営みというものは、脈々と現代まで続いているものですね。
コメントいただき感激です。
by アテンザ23Z (2011-09-26 13:29) 

河内掾

千葉県長生郡白子町に本家を持つ、その隣町に住む大多和です。

我が家は庶流の分家なので何もありませんが、それでも三浦の流れを汲んでいると祖父から言われていました。
因みに祖父の父親は同町の河野家からの養子で、河野家は熊野の水軍の末裔と言われています。

又、白子町の資料を見ると中世に同町関の白子神社に祈願した人物として大多和河内掾と言う名が見えます。
そして、現在も白子神社の総代は大多和氏が務めており、例祭の時には代々陣笠を被り、脇差を差し、裃姿で登場します。


私にも大多和城に住まった義久公の血の一滴でも流れてたら・・・
by 河内掾 (2012-12-22 02:27) 

アテンザ23Z

>河内掾さん
ご訪問いただきありがとうございます。
房総半島には三浦氏関係の末裔の方が結構いるみたいですね。
やはり北条早雲に三浦氏が滅ぼされた頃に
房総半島に逃れたのでしょうか?
貴重なお話、ありがとうございました。
by アテンザ23Z (2012-12-23 23:13) 

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