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赤松円心館(兵庫県上郡町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC07763.JPG←館跡の土塁
 赤松円心館は、播磨の守護大名赤松氏の祖赤松円心則村の館跡である。円心は、1331年から始まった元弘の乱の際に後醍醐天皇の子、大塔宮護良親王の令旨を受けて苔縄城で挙兵し、乱の最終段階では京都目前まで迫って六波羅勢と干戈を交えるなど、楠木正成や名和長年に劣らぬ抜群の軍功を挙げた。しかし1333年に鎌倉幕府が倒され、後醍醐天皇による建武の新政が始まると冷遇を受け、倒幕の恩賞では、もともと実効支配していた播磨一国どころか本拠地の佐用の庄一所のみを賜う有様であった。これは円心が、帝との直接のつながりが一切無く、大塔宮の指令のみによって動いたことが原因であった。新政政府の中には帝の寵妃阿野廉子を中心とする隠岐閥と大塔宮派の深刻な対立があったと言われ、そのため大塔宮派の円心は冷遇されたのである。これに怒った円心は、「たとえ朝敵となっても、この恨みを(いつか晴らしてくれよう)。」と言って本国に帰ったと太平記に記されている。そして新政が破綻し、1335年の中先代の乱をきっかけに足利尊氏が離反して京都に攻め上ると、円心は尊氏に味方して西から京に攻め上った。尊氏が京都争奪戦で敗退して兵庫に下ってくると円心は足利勢を自領に迎えて保護した。尊氏は室泊の軍議で、来るべき新田義貞を総帥とする官軍の侵攻に対抗する手立てを講じ、自身は僅かな兵を率いて九州に下って再起を図った。播磨は赤松円心が白旗城に籠って官軍に抵抗した。新田義貞は白旗城を攻めたが中々降せず貴重な時日を費やしている間に、九州では尊氏が多々良浜の戦いで大勝してわずか3ヶ月で頽勢を盛り返し、少弐・大友ら鎮西諸豪を率いて大軍で再挙東上を始めた。新田義貞を白旗城に釘付けにした円心の軍功は抜群で、その後の歴史の流れを大きく変えたと言ってよい。室町幕府成立後の内部抗争、観応の擾乱でも赤松氏は終始尊氏方に従い、3代将軍足利義満が武家の典礼を定めた際には、三管領家に次ぐ四職家に名を連ねる強豪守護大名となった。

 赤松円心館は、白旗城から西に2.2km、苔縄城から北東に1.5kmの位置にあり、段丘上に築かれている。現在は空き地(公園?)と幼稚園の敷地となっていて、館跡の平場の周囲に何段かの腰曲輪らしい平場や土塁の跡が残っている。堀跡もあると解説板にはあるがよくわからなかった。周りがみな宅地に変貌しているので、どこまでが遺構かも判然としないが、円心縁の地として貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.913297/134.360036/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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