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白旗城(兵庫県上郡町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC08005.JPG←大手郭群に残る石垣
 白旗城は、南北朝期に赤松円心が築いた山城である。築城は、1333年に大塔宮護良親王の令旨を受けて円心が挙兵した時とも、足利尊氏が九州に下り、播磨に残った円心が新田義貞の侵攻を食い止めるために1336年に築いたとも言われている。1336年、尊氏討伐のために軍勢を率いて西国に下った新田義貞は、赤松円心の拠る白旗城を数万の大軍で取り囲んだ。しかし天険の要害であったために白旗城は頑として落ちず、攻防は50余日にも及んだ。義貞が白旗城に固執したのは、自身が播磨守護であったため、領国の叛乱を放置出来なかったからとも言われている。しかし義貞がここで貴重な時日を費やしたことが、結果的に後醍醐天皇方の戦略上の大きな失策となり、この間に尊氏は九州諸豪を従えて西上を開始することとなった。逆に尊氏からすれば、義貞軍を長期にわたって釘付けにした円心の軍功は計り知れないものがあり、室町幕府が開かれると赤松氏は播磨守護として揺るぎない地位を築いた。以後、白旗城は播磨守護赤松氏の本城として5代100有余年にわたって重要な位置にあった。赤松氏は播磨の他、備前・美作の守護も兼帯したが、赤松満祐の時に6代将軍足利義教を暗殺して嘉吉の乱が勃発し、幕府の討伐を受けて一時滅亡した。後、赤松政則が赤松氏を再興したが、居城を置塩城に移し、白旗城は支城の一つとなった。戦国時代には守護の赤松氏や守護代の浦上氏によって使用され、戦国末期まで機能したと考えられる。

 白旗城は、標高440m、比高390mを数える峻険な山城である。その規模は強豪守護の本城というに相応しく、城域は広大で各曲輪の規模も大きく、堂々とした山城のイメージである。山頂に本丸を置き、その南尾根に三ノ丸、北尾根には付郭群が配置され、メインとなる本丸から東に伸びる尾根には、馬場丸・二ノ丸・櫛橋丸が築かれ、更にそれらの主要な曲輪の周囲には多くの腰曲輪が付随している。付随する段曲輪も多い城であるが、堀切の数は少なく規模も小さめである。解説板の縄張図では二ノ丸と櫛橋丸の間も堀切とされるが、私が見た限りただの尾根の鞍部にしか見えなかった。また二ノ丸から南に降ると侍屋敷とされる曲輪と、更にその下方に大手郭群があり、ここには多数の石垣が残っている。ただそれぞれの石垣は高さが低く、全体的にかなり崩落が進んでいる。侍屋敷跡には窪地があり、そこには石が散乱しているので、廃城処理した井戸跡ではないだろうか。その他、虎口などは構造が平易な坂虎口が多く、本丸だけが小さな枡形虎口となっている。これらから推測すると、縄張り自体は南北朝時代の結構をそのまま引き継いでおり、戦国期には石垣や段曲輪群などを増強しただけのように思える。この城では何と言っても比高と峻険さが最大の武器で、それ以上の改修の必要もなかったのかも知れない。この峻険さでは、いかに大軍といえども「平場の懸」を得意とする坂東武者の新田義貞では攻め切れなかっただろう。その歴史、規模共に堂々たる山城である。なお赤松方面から登る登山道は、石がゴロゴロ転がっていて足場が悪いので、健脚の方以外は登らない方が良いだろう。
本丸の虎口→DSC07922.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.908185/134.380732/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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