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糟屋館(神奈川県伊勢原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09070.JPG←糟屋館の跡地付近
 糟屋館は、扇谷上杉氏の居館で、その家宰太田道灌の最期の地として知られている。扇谷上杉氏は、足利尊氏の母清子の長兄重顕を祖とする家系で、重顕の弟憲房の系統から輩出された山内・犬懸・宅間と共に上杉四家として鎌倉府の重臣となり、室町時代の中世関東の一大勢力の一翼を担った。上杉四家の内、宅間上杉氏は勢力が微弱であり、犬懸上杉氏は時の当主上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に反乱を起こして滅ぼされて衰亡した。上杉氏嫡流となった山内上杉氏は室町時代中期頃より関東管領を世襲するようになり、扇谷上杉氏は山内氏に協力して関東の統治に参画した。室町時代後期に起こった享徳の乱・長尾景春の乱では、扇谷上杉定正の家宰太田道灌が関東を転戦して活躍し、主家を凌ぐほどの声望を得た。道灌の活躍で山内氏を凌ぐ勢いとなった扇谷上杉氏の勢力拡張を危惧した山内上杉顕定は、1486年、讒言を以って定正に道灌暗殺を唆した。道灌は文武に秀でた才略の持ち主ではあったが、やや傲岸不遜の性があり、主君定正に対しても直言して憚らなかった。一方、定正も決して暗愚な主君ではなく傲邁な性であった為、両者の間には既に隙が生じており、定正は顕定の謀略に引っかかって、道灌を糟屋館で誘殺した。この後、定正は顕定の謀略に気付き、両上杉氏は反目して抗争を始め、1487年、長享の乱が勃発した。相模や武蔵国内で両者が抗争する中、1483年、山内上杉顕定は扇谷上杉氏の本拠糟屋を押さえようと、鉢形城を出兵し一千騎で押し寄せた。そして糟屋館の背後を押さえる、定正の弟朝昌の守る七沢城を攻め落とした。これに対して定正は手兵200騎余りで河越城から駆けつけ、両軍は実蒔原で激突した。実蒔の地形を熟知していた扇谷勢は、寡兵にも関わらず山内勢を討ち破ったと言う。その後、両者の抗争の隙を突いて伊豆から相模に進出した伊勢宗瑞(北条早雲)は、着々と東に勢力を広げた。扇谷上杉氏は相模を奪われ、この頃糟屋館は廃されたと思われる。

 糟屋館は、その場所には諸説あるが、一般的には産業能率大学のある台地上にあったとされている。中世関東の一大勢力の本拠であったが、その歴史は闇の彼方に消えており、遺構は完全に湮滅している。日本城郭大系によれば、大学建設前の発掘調査によって台地上から小規模な堀跡と建物跡が発見されたと言う。しかし、わずかな遺構しか確認されておらず、大学敷地東側に遺構が眠っている可能性があるようである。大学の東側は、現在広大な空地で民家が点在し、更にその東は宅地となっている。台地の南側には谷戸があるが、一説には空堀跡とされている。しかしあくまで自然地形をそのまま利用したもので、人為的な構築は感じられない。糟屋館の跡とされる場所は標柱もなく、近々道路建設で破壊されるようである。大勢力の本拠にしては、あまりに寂しい現実である。

 尚、糟屋館の近くには、非業の死を遂げた太田道灌の墓や、道灌と共に討死した7人の家臣を祀った七人塚がある。道灌の霊廟のある洞昌院は、訪れた時はお守りとお札が無料という太っ腹で、お賽銭を置いてありがたく頂いた。道灌の墓は、椿が咲き乱れる最高の日和であった。
椿で彩られた太田道灌墓所→DSC09042.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.414131/139.290751/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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evergreen

このあたりは、実家から近く、
太田道灌には、幼い頃から親しみを感じていたのですが、
なぜかこの辺りの人は、あまり感心が無いらしく、
子供たちが郷土の歴史を教わる機会もあまりなく、残念です。
by evergreen (2011-11-07 04:40) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
そうなんですか。
東京ではあれほど太田道灌にまつわる地名が多く、
銅像も複数作られているのに、
伊勢原の方ではあまり人気がないのでしょうか。
ほんとに残念ですね。
by アテンザ23Z (2011-11-08 16:18) 

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