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此隅山城(兵庫県豊岡市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC05338.JPG←尾根筋の堀切
 此隅山城は、但馬守護山名氏の歴代の居城である。山名氏は、南北朝時代に足利氏に従って功を挙げ、山陰に地歩を築いた。その経緯は山名時氏墓所の項に記載する。但馬にも勢力を伸ばし、文中年間(1372~74年)に山名時氏の子時義が、守護所として此隅山城を築いたと言われている。但馬山名氏は山名氏の宗家として威令を振るい、明徳の乱で勢力を減退した後も、山名持豊(宗全)が嘉吉の乱の赤松討伐で功績を挙げ、赤松氏の遺領を手に入れるなど大守護として存在感を高めた。しかし宗全は、三管領家の斯波氏や畠山氏の家督争いに介入して管領細川勝元と対立し、将軍足利義政の後継者をめぐる争いもあって、遂に応仁文明の大乱を引き起こすに至った。11年に渡った戦乱で、京都は灰燼に帰し、領国経営を放置して京都での騒乱に明け暮れた各地の守護大名は、守護代や国人衆にその実権を奪われ、一気に戦乱の世に突入することとなった。西軍の総帥であった山名氏も宗全が陣没し、長い戦乱で勢力を弱め、更に乱終結後の播磨をめぐる再興赤松氏との抗争で敗北し、守護代の楽々前城主垣屋続成は主家を凌ぐ勢力となって山名氏と対立した。1505年には山名致豊は居城の此隅山城を垣屋続成に攻撃され、翌年、将軍足利義澄の調停で山名・垣屋両氏は和睦した。その後、山名氏の勢力は更に弱まり、但馬国内は垣屋氏・太田垣氏・八木氏・田結庄氏ら山名四天王が自立の動きを見せ、群雄割拠の状況となった。戦国後期の1569年には、織田信長の命によってその部将羽柴秀吉が但馬に侵攻し、此隅山城を含む18城を落城させた。この後、1574年に山名祐豊は残存勢力を結集して有子山城を新たに築き、此隅山城は廃城となった。

 此隅山城は、西麓に守護所や家臣団の武家屋敷が置かれ、比高120m程のなだらかな山上に詰城として築かれた山城である。詰城とは言っても、三管四職に名を連ねた強豪守護の築いた城だけあって、城域は山全体に及んでいる。しかし、その縄張りは室町期の古い形態で、基本的には段郭群で構成されただけである。山頂には南北に長い主郭があるが、その防御はあまり固いようには見えない。虎口は平易で枡形はほとんど見られず、堀切も数は少ない。堀切はいずれも小規模なものである。北西尾根の堀切には、これに沿う形で二重竪堀が穿たれているが、これも規模は比較的小さい。守護代垣屋氏の楽々前城の方が遥かに高度な縄張りで、此隅山城が古い形態であるのは山名氏没落の証であったのかもしれない。此隅山城は国指定史跡であるが、主郭周辺は草茫々で、遺構の確認が大変である。遺構共々やや残念な城である。とは言え、中世但馬の歴史の中心地であり、その重要性には変わりはない。
二重竪堀→DSC05332.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.487231/134.872359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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