SSブログ

金山城(静岡県伊豆の国市) [古城めぐり(静岡)]

DSC06803.JPG←北出城の堀切
 金山城は、南北朝時代に畠山国清が築いた畠山三城の一つである。金山城の名は太平記での記載によるが、軍忠状や感状では神益(神餘)城と記載されており、本来の名は神益(神餘)城が正しい様である。南北朝時代、足利尊氏の次男基氏が鎌倉公方となり、その執事には上杉憲顕の後任として畠山国清が就いていた。これは、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱の際に、上杉憲顕が直義派であった為、罷免されて自領の越後に逃れ、これに代えて尊氏は畠山国清を鎌倉府の執事に任命した。しかし国清は、後に基氏との間に軋轢を生じ、1361年、失脚した国清は弟義深・義熙と共に自領の伊豆で基氏に反旗を翻した。この時、金山城・修善寺城三津城の3城を築いて、修善寺城を本城とし、金山城と三津城に弟2人を配して立て籠もり、畠山三城と呼ばれた。しかし鎌倉府の軍勢に攻められて次々と城を落とされ、結局基氏に降服した。その後の国清の消息は定かではないが、大和で窮死したとも言われている。

 金山城は、比高322mの峻険な城山山上に築かれている。この山はほぼ垂直の断崖がそびえ立つ険しい山で、ロッククライミングの名所にもなっている。金山城は、南北朝時代の城らしく古い形態の城で、基本的には段郭群のみで構成されている。大きく主城部・北出城・南出城に分かれており、全てを含めると城域は相当に広い。しかし各曲輪の規模は比較的小さく、堀切もささやかな規模で竪堀もわずかである。主郭は山頂ではなく、山頂から西に伸びる尾根の下に築かれており、北辺を土塁で防御したほぼ方形の平場である。主郭から山頂に向かう東の尾根は狭い痩せ尾根で、途中には岩を切通し状にした通路も存在している。この石の切通し虎口は面白い工夫である。更に東には物見台の曲輪があり、城山山頂も物見台として機能したことが、その眺望の素晴らしさから伺うことができる。一方、北出城は深い藪の中にあるが、腰曲輪群や土塁・堀切などが残っている。南出城は、古道を取り込んだ構造の様で、腰曲輪群のほか、南下方には虎口か横堀らしい遺構が見られる。しかしこの周辺はシダが密生しており、遺構の形状がほとんど確認できない。またこれらの山上の遺構とは別に、谷戸を登る登山道の中腹に広い緩斜面があり、大手門の置かれた場所だった可能性もある。いずれにしても、南北朝期の古い城で、そのまま放棄されたものであろう。
岩の切通し虎口→DSC06709.JPG
DSC06629.JPG←ロッククライミングの名所

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【主城部の主郭】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.005041/138.928285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【北出城】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.007327/138.928760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【南出城】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.004128/138.926185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


足利基氏とその時代 (関東足利氏の歴史)

足利基氏とその時代 (関東足利氏の歴史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/10
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント