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堀越御所(静岡県伊豆の国市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08232.JPG←堀越御所伝承地の現況
 堀越御所は、堀越公方と呼ばれた足利政知の屋敷である。室町時代中期より永享の乱・結城合戦と戦乱の打ち続いた関東では、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠の対立が深刻となり、1454年、遂に成氏が憲忠を謀殺して享徳の大乱が勃発した。室町幕府の8代将軍足利義政は関東管領上杉氏を支援して関東を直接支配する為、1457年に庶兄の政知を新たな鎌倉公方として関東に下向させた。しかし関東では依然として上杉憲顕に鎌倉を逐われた足利成氏が下総古河に逃れて古河公方と呼ばれて自立しており、政知は関東に入ることができず、伊豆の堀越に入って腰を落ち着けてしまった。これが堀越公方である。政知はそのまま成すこともなく1491年に病没した。御所内ではその跡目を巡って争いが起こり、足利茶々丸は弟を殺して自立し、2代目堀越公方の地位を奪取した。伊豆が騒乱状態となると、今川家の客将で興国寺城主伊勢宗瑞(北条早雲)は、1493年に伊豆に討ち入って堀越公方を攻め滅ぼし、伊豆を平定した。堀越御所は、堀越公方の滅亡と共にそのまま廃墟となったと考えられる。

 堀越御所は、国の史跡に指定されているが、現在はただの空き地となっている。発掘調査では、庭園の池跡や建物跡が見つかっており、都風の風雅な暮らしを送っていたらしいことがわかっている。まだ御所自体は発見されておらず、従って今のところはあくまで御所の伝承地ということになっている。いずれにしても関東の騒乱をよそに、気ままな生活をしていた堀越公方は、宗瑞に滅ぼされるべくして滅ぼされたのであろう。関東に秩序を取り戻すために派遣された堀越公方の存在が、かえって関東に新たな秩序を切り開く小田原北条氏を呼び込む結果になったとは、歴史の皮肉という他はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.048637/138.939232/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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