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河津城(静岡県河津町) [古城めぐり(静岡)]

DSC08584.JPG←主郭裏の堀切
 河津城は、鎌倉公方足利氏の血を引く蔭山勘解由が築いた城と言われている。第4代鎌倉公方足利持氏は、室町幕府に反抗的な態度を取り、永享の乱を起こして滅亡した。この時、持氏の7男広氏は、乳母と共に河津に落ち延び、その後、在地豪族の蔭山氏の婿となって跡を継いだと言われている。1493年に、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方足利茶々丸を滅ぼし、そのまま伊豆全土平定のため軍を進めると、蔭山氏は河津城に拠って抵抗したが、火攻めを受けて落城し、北条氏に降って家臣となった。その後の城の歴史は定かではないが、海上ルートの監視所ぐらいには使用されていたものと推測されている。1590年の小田原の役では、時の城主蔭山氏広は、迫り来る豊臣方の大水軍の前に戦わずして降服したらしい。その後、氏広の娘(実は勝浦城主正木頼忠の娘。母が氏広と再婚し、その娘となった。)は徳川家康の側室となり、於万の方と呼ばれて頼宣(紀州徳川家の祖)・頼房(水戸徳川家の祖)の二子を生んだ。

 河津城は、比高170mの城山山上に築かれた小規模な城塞で、あくまで詰城の位置付けであったと思われる。主城部は主郭・ニノ郭の他、背後の細尾根に狭小な曲輪を連ねただけの縄張りで、その形態から考えれば、1493年頃の落城当時の遺構をそのまま残していると見られる。堀切は小規模であるもののよく残っている。一方、南東に張り出した片瀬山との間の鞍部には古道が通るが、堀切状となり、周辺には古道を監視するように出丸らしい平場が築かれている。また、付近には段曲輪の様な平場群も付随しており、後世の耕地化による改変の可能性があるものの、これらが遺構であるとするとかなり広い城域となる。この古道は大堀切であり、その規模は山上の遺構とは明らかに異なっているので、北条氏の改修によるものかもしれない。
堀切状の古道→DSC08638.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.752385/138.996288/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世山城
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