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雲見上の山城(静岡県松崎町) [古城めぐり(静岡)]

DSC09028.JPG←城址の現況
 雲見上の山城は、小田原北条氏の重臣高橋氏の居城である。高橋氏は元々九州筑後の国人で、後の戦国時代に大友宗麟の下で活躍した高橋紹運、その子で立花氏を継いだ立花宗茂と同族と言われている。高橋家の墓誌によれば、6代高橋筑後守光種は、南北朝期の1336年、筑前多々良浜の戦いで足利直義に従って、菊池武敏と干戈を交え、九州検断職に任ぜられた。その後、室町将軍の偏諱を代々受けるなど、足利将軍家と強いつながりを持ち、その故か、堀越公方足利政知は将軍足利義尚に乞うて、12代高橋左近将監高種を、子の茶々丸の師として招いたと言われている。この時高種は、将軍義尚によって雲見上の山城に封ぜられたと言う。政知の死後、茶々丸は弟を殺して家督を奪い、伊豆が乱れると、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)は伊豆に侵攻し、堀越公方を攻め滅ぼした。宗瑞は雲見上の山城にも兵を進めて取り囲んだが、城は落ちず、宗瑞は高橋高種の武勇に感じて和を求め、娘(即ち北条氏2代氏綱の妹)を娶らせた。以後、高橋氏は北条氏の重臣となり、百年に渡って北条氏の伊豆支配の一翼を担った。また氏綱が、扇谷上杉氏を攻めて江戸城を奪うと、高種を江戸城留守居の大将としたとも言われる。高種の子将監種政は武勇に優れ、氏綱の養子となって北条治部少輔綱種(綱高)と改名し、北条一門に列した。扇谷上杉氏の反攻が始まると、綱種は、弟高橋左近将監氏高と共に牟礼砦烏山砦を築いて深大寺城を囲むなど、活躍した。高橋家は氏高が継いだが、氏高も後に北条性を名乗ったと言う。1590年の小田原の役の際には、時の城主高橋丹波守が一族を率いて下田城に入り、水軍の大将清水上野介康英の同心として、50余日に渡る籠城戦で活躍し、北条氏の滅亡の時まで忠節を尽くした。北条氏滅亡後は、雲見にあって、以前同様浅間神社の宮司を務め、現在まで存続している。

 雲見上の山城は、比高50mの西に張り出した支尾根の上に築かれた城である。城のあった尾根は広大な平坦地であるが、現在は耕作放棄地となっているらしく、雑草が伸び放題で遺構の確認が容易ではない。城内は数段の平場に分かれており石垣が散見されるが、耕地化による改変の可能性が高い。この平場の東端の南北には、虎口らしき跡が残り、特に北側のものは山腹に井戸跡などの平場が残り、いかにも登城道らしい竪堀状の造りとなっているので、こちらが大手であろう。虎口付近にも石垣があるが、これも遺構ではないだろう。また城の背後の尾根上にも平場が多数あって石積みも築かれているが、ほとんど後世の耕地化によるものだろう。結局、後世の改変が多く、どこまでが城だったのか判然としないが、高台上の平地に居館を築いた程度のものだったと思われる。尚、城の南麓には高橋一族の墓が多数あり、由来を刻んだ墓誌も建てられている。

 尚、訪城の前日に城の麓にある雲見温泉の民宿に泊まったが、その際に宿のご老人から多くの貴重な話を伺うことができたので、簡単に記載しておく。(上述の高橋氏の歴史についても、伺うことができた)
 雲見は、明治時代に大火があって、高橋家の古文書がかなり焼けた。しかし東京世田ヶ谷に移った分家があり、そこにも古文書が伝わっているらしい。高橋家の居宅は、地元では「大屋」と呼ばれており、城のある台地の西麓にある。周囲の家並みの最上段にあるので、私の推測ではおそらく往時の城主居館がそのまま残っているのだろう。また下田城で共に戦った清水氏の分家が雲見にいるとのこと。実は長子だが、病弱だったため家督を譲って隠棲したと言う。この他に鯨の話。何十年か前に鯨が港に打ち上げられ、その骨が雲見くじら館に展示されている。全長12mのセミクジラで、港が鯨から出る脂で汚されるので、鯨漁で知られる紀州から鯨職人を3人呼んで、解体してもらったそうである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.724825/138.746431/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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evergreen

地元の方の話がきけたりすると、旅の醍醐味が味わえますよね。
by evergreen (2012-06-05 12:24) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
その通りですね。
特に知られていない歴史などがわかると、
得した気になって嬉しいですね。
by アテンザ23Z (2012-06-05 19:16) 

デューク 鷹

関東の中世を研究しているものとして、一言云わせて頂きますと上の山城主の高橋氏は、九州の高橋氏とは関係ないと思われます。この引用の系図は世田谷烏山の高橋系図が基で、系図の内容が戦国期の事実とはそぐわない物です。雲見の高橋家は北条家からの古文書を蔵する現在静岡市にお住まいの高橋家です。
by デューク 鷹 (2012-06-09 02:04) 

アテンザ23Z

>デューク 鷹さん
ご教示ありがとうございます。
本文にも書きました雲見在住の方の話では、
雲見の方は皆、高橋氏は九州出身と信じておられる感じでした。
雲見の方々御一行で、九州の高橋氏の本貫地を
訪ねたこともあるそうです。
中世の系図は、虚実入り混じっているものが多いので、
地元でも(地元だからこそ?)真実が伝わっていないのかも知れませんね。
by アテンザ23Z (2012-06-09 23:15) 

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