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丸山城(静岡県伊豆市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09222.JPG←新城段曲輪の石垣
 丸山城は、小田原北条氏の家臣富永氏の築いた海賊城である。富永氏は、土肥高谷城を拠点として西伊豆に勢力を張っていた豪族で、1493年に小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に侵攻すると、早い段階で宗瑞に臣従し、以後北条氏の家臣となり、海賊衆の大将の一人として西伊豆沿岸警備の重責を担った。そして高谷城の出城として丸山城を築き、一族の富永山随を城主とした。天正年間(1573~92年)、北条氏政は駿河湾に展開する武田水軍に対抗する為、丸山城を大幅に拡張して(現在の本城部分)本丸を移した。1579年に武田勝頼が伊豆に攻めてくると、富永山随は水軍を率いて武田水軍と戦い活躍した。1590年の小田原の役の際には、丸山城は豊臣方の水軍に攻められて落城したと考えられている。

 丸山城は、大きく2つの城域で構成されている。八木沢漁港の西側に張り出した海抜46mの小丘が元々の丸山城の旧本城であり、拡張後の出城である。そして、国道を挟んでその南側に広がる最頂部の海抜110mの丘陵地に築かれたのが新城である。
 まず出城は、非常に単純な縄張りで、楕円形の独立丘陵の頂部に主郭を置き、その北側斜面に6~7段の腰曲輪群を連ねている。主郭には低い土塁で囲まれた区画があり、虎口も設けられており、日本城郭大系では兵糧貯蔵庫の可能性を指摘している。主郭の虎口と腰郭群には、所々に石積みが残っており、往時は総石垣の城だった可能性がある。また出城の南の谷部は堀切とされている。出城の東麓にある丸山スポーツ公園は、かつては人工の入江であり、北条氏がその土木技術にモノを言わせて作り上げた人工の水軍停泊地であったらしい。
 次は新城であるが、麓の国道から山道に沿って登ると、すぐに左側に段曲輪群が現れる。いずれも広い曲輪で、しかも明確な石垣を多数伴っている。最初は後世の耕地化によるものかと思ったが、どうも遺構のようである。曲輪群の最上部が主郭で、現在は畑や薮となっている。主郭にも道沿いに石垣があり、これも遺構らしい。主郭背後は低い鞍部で広い窪地となっているが、ここは堀切跡とされている。その南には天王平と呼ばれる丘状の頂部があり、最上部には神社が建てられている。ここは詰の曲輪とされるが、周囲はほぼ自然地形に近い。天王平の背後も広い窪地となっているが、ここも同じく堀切で、堀状の形状が明瞭である。

 以上の様に、丸山城は広い城域を有し、海に付き出した出城と連携した水軍基地として有効に機能していたことが伺われる。しかし、新城部の縄張りはやや中途半端であることから、一説には戦国末期に急遽拡張されたものの未完に終った城とも言われる。
出城の腰曲輪→DSC09194.JPG
DSC09268.JPG←新城の詰の曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【出城】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.895778/138.768665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【新城の主郭】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.893424/138.766556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【新城の詰の曲輪】http://maps.gsi.go.jp/#16/34.891202/138.765982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


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