SSブログ

沼津城(静岡県沼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02662.JPG←中央公園に建つ城址碑
 沼津城は、元々の名を三枚橋城と言い、戦国時代には駿豆国境を押さえる重要な拠点城郭であった。その創築は明確ではなく、1479年に今川氏の客将伊勢宗瑞(北条早雲)が築いたとも言われるが定かではない。三枚橋城が、はっきりと歴史上に姿を表すのは、戦国後期に甲斐武田氏が駿河に進出してからで、1570年頃に武田信玄が築いたと考えられている。城将としては、武田家重臣の高坂源五郎昌信(実際はその子昌元か)が有名で、その城将の選択を見ても、いかにこの城が戦略上重視されていたかがわかる。東方4km弱の位置にある小田原北条氏の戸倉城や、南方約5kmの獅子浜城と対峙しており、三枚橋城と戸倉城の間では、小競り合いが絶えなかったと伝えられており、一時期、北条氏に攻略されたこともあった様だ。1581年には、城将高坂氏が武田勝頼の命で戸倉城将笠原新六郎を誘降することに成功し、北条氏と激しく対立した。しかし、1582年に武田勝頼が滅ぼされると、高坂氏は徳川家康に三枚橋城を明け渡して甲州に退去し、以後、徳川氏の持ち城となり、松平周防守康親が城を守った。この頃、韮山城の北条氏規との間で度々合戦が行われたと言う。1590年に北条氏が滅び、徳川家康が関東に入部すると、駿府城主中村一氏の弟氏次が城主となった。1600年の関ヶ原合戦後は、家康の家臣大久保忠佐が城主となった。1613年に忠佐は嗣子なく没し、翌年城は破却された。その後、しばらく城はなかったが、江戸時代中期の1777年に、10代将軍家治の命で、水野忠友が新たに沼津新城を築いた。新城は、戦国期の三枚橋城の外堀・三ノ丸を撤去して二ノ丸を改修したもので、古城より規模を大幅に縮小して築城された。以後、水野氏は8代約90年続いて明治に至り、城は明治時代まで存続した。

 沼津城は、現在は完全に市街化されて遺構は湮滅し、往時の縄張りを想像することさえ困難である。現在は、本丸跡に当たる中央公園に城址碑が建っているほか、ホテルなどの前に発掘された石垣が復元されているのみである。全国に多く見られる、街中の平城の悲しい末路である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.098836/138.859516/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント