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尼巌城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC05829.JPG←急斜面を落ちる竪堀
 尼巌城は、在地豪族の東条氏が築いた峻険な山城である。西麓には寺尾城金井山城があり、3城一体であったとされているが定かではない。武田信玄は1553年に村上領に侵攻して、村上義清は葛尾城を自落して逃れ、屋代氏などは武田方に臣従したが、東条氏は尼巌城に拠って反抗を続けた。信玄は部将真田幸隆に催促して尼巌城を攻めさせ、1556年に幸隆は、尼巌城を調略で落とし、東条信広は越後に逃れた。落城後、信玄は西条氏に尼巌城の普請を命じた。その後、川中島地域が甲斐武田氏と越後上杉氏との接壌地帯となり、甲越両軍の重武装地帯に変貌すると、海津城の背後を押さえる川中島城塞群の一つとして機能した。1582年の武田氏滅亡後、北信4郡が上杉景勝の支配下に入ると、景勝は尼巌城に旧城主の東条信広に守らせた。その後、上杉氏が会津に移封となると、尼巌城は廃城となった。

 尼巌城は、特徴的な山容(ウモさんのHP「埋もれた古城」で言うところの「海坊主」)の標高781m、比高420mの尼巌山に築かれている。遠望しただけでも周囲を断崖絶壁に囲まれた要害であることがわかるので、この城に登る者は皆、気合を入れて登城することになるだろう。登り道はいくつかあるが、私は南東麓の岩沢口から登城した。結果的はこれが最短距離の道で、比高も車で150m程も稼げる。しかもこの方面から登ると、途中には南東側中腹の腰曲輪群と竪堀群を見て回ることもできる。極めて急峻な山城で、東西に曲輪を直前状に連ね、要所を堀切で分断した縄張りで、主郭背後にはわずかに石積みも見ることができる。大手は西尾根で、主城部前面には二重堀切があるが、竪堀に分岐接続した複雑な堀のネットワークとなっている。主城部中程の堀切は、そのまま北側の斜面に長く竪堀が落ちているが、この竪堀普請は多分職人が転落死してるな、という様な急斜面に竪堀を刻んでいる。西の大手筋を途中まで降って行ったが、巨大な岩塊が延々と続き途方も無い。下方の木戸口に石垣があるらしいのだが、時間と体力の制約もあり、途中で引き返した。山自体の持つ要害性を、最大限に生かした山城の好例だろう。
南東中腹の腰曲輪群→DSC05773.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.572966/138.222996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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